「嫉妬の時代」  岸田秀 飛鳥新社 1987年    
   日本人の行動原理は「やきもち」?
 この人の本を読もうと思ったのは、もともと精神分析について読みあさってみようという動機からだった。「フロイトを読む」という本を図書館で借りて読んでみたが、あまりのれなかった。しかしこの「嫉妬の時代」は非常に面白かった。
 題材が少し古いが、三浦和義事件、戸塚ヨットスクール事件、豊田商事事件など世間の様々な事件に対して、心理学の立場から意見を書いている。筆者がこれらの事件にもともと興味があったのではなく、編集者からそれらの事件の概略を聞いた上で、編集者からの質問に答え、それをまとまった文章にするという形で作られた本である。
 この本のテーマは序文にわかりやすく書かれている;

 「私はかねてから、近代日本は黒船来航に代表される欧米諸国の衝撃を受け、欧米諸国に迎合し屈従する外的自己と、その迎合と屈従のために傷ついた自尊心を回復しようとして誇大妄想にのめり込んだ内的自己に分裂し、この分裂状態は現在もまだ続いていると主張している。」

 「この葛藤は別の言葉で言えば、まさに嫉妬者の葛藤である。近代日本は欧米諸国に嫉妬し続けてきたのである。また同時に、己の位置づけを失った者は、どうしてもおとなしくじっと落ち着いているということができなくなる。じっと落ち着いていられる安定した場所はなく、このまま何もしなければ自分が消えてなくなってしまいそうな不安に襲われるからである。そこで常にはしゃいで目立ち、人々に自分の存在を印象づけなければならない。」(4〜5ページ)


 このような葛藤は様々なレベルで存在し、ここでは三浦和義氏に対する嫉妬、戸塚宏氏に対する賛美と非難、日本の写真週刊誌の存在理由などをテーマにして展開される。最近の話題で言えば、「つくる会」の教科書はまさしくこの序文の内容そのものである。教科書の著者にぜひ読んでもらいたい。
 またこのような「はしゃぎ」「嫉妬」は、テレビのワイドショーなどでも毎日のように見られる。まあ嫉妬する自由は万人にあるだろうが、たとえばイラクで人質になった人に対する一部マスコミや政治家の「自己責任バッシング」などは多分に見苦しい嫉妬だと思う。せめて本人にそういう自覚があればもう少しマシだと思えるが。

 教育に関して考えさせられたのは、以下の文章である;

 「ぼくは、教育というのは本来ダーティーな仕事だと思っています。にもかかわらず、それがいかにもダーティーでないかのように装ってきたのが戦後民主主義教育で、ダーティーなことをダーティーなままに堂々とやってしまったのが戸塚宏だと思います。(中略)
 教育というものがなぜダーティーなことかと言えば、それは本来人間の持つさまざまな方向への可能性を摘み取り抑えつけて、ある型にはめ込む作業だからです。人間を社会に役立つようなパターンに入れること、それが教育です。(中略)
 その意味で、教育とは生徒に対する一種の攻撃であり、生徒は教育の被害者なのです。しかし人間を教育しないわけにはゆきません。教育はいわば必要悪です。」(54〜55ページ)


 「プロ教師の会」に通じるような主張であるが、現状を見るときこの主張を完全に否定するのは難しい。しかし特に体を張って子どもと向き合っている人(私ではない!)にとっては、「必要悪」という言い方は耐えられないだろう。
 教育には「型にはめる」のと同時に「未知の可能性を探り出す」という面もある。一度型にはめられた才能でも、いずれ型を突き破って伸びていくものはあるだろう。可能性を伸ばすために一度型にはめる、という考え方もあるかもしれない。
 しかし問題なのは、教える側が自らの行動をすべて正当化することだと思う。自分の仕事の中にダーティーな要素が入るのは、今の日本ではほとんど避けられない。そこから目をそらして、生徒のために教師としてすることはそのまま正しいことだという思い込みにはまると、生徒を抑圧することになる。私にもそういう経験があるし、そうしている教師も見たことがある。
 教師の建前としての「教育は善である」という意識を生徒への抑圧(ストレス)に広げないためには、この本のような文章を記憶にとどめることが必要なのだと思う。(2004/4/30)


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