「ろうそくの科学」  マイケル=ファラデー 三石巌訳 埼玉福祉会 1999年
   屋根裏部屋実験の最終到着地点
 以前文庫本でこの本を買ったのだが、本箱を探しても出てこないので、図書館に借りに行ったら「大活字本シリーズ」が置いてあったので、借りて読んでみることにした(底本は角川文庫)。
 ファラデーは19世紀の科学者で、この本は1861年(江戸時代末期!)のクリスマス休暇にロンドン王立研究所で行われた6回の講演の記録である。クリスマスにひっかけてロウソクの話にしたのだろう。ファラデーはこの年で王立研究所を去ったというから、今で言えば「退官記念講演」といったところか。
 燃焼はもっとも身近な化学反応であり、しかも生物の根本的なはたらきである呼吸と同質のものである。ファラデーは豊富な実験を交えて、ロウソクの材料の話から始まって、呼吸と光合成のバランスの話に至るまで、ロウソクの燃焼の物理的・化学的分析についてわかりやすく説明している。
 ……のだが、今の中学生がこの話を聞いたら納得するかというと、多少の疑問符がつく。現在の科学知識から見て不備があるという意味ではなく、論理の飛躍がやや感じられるからだ。たとえば、

 さて皆さんに、ロウソクからでてくる二酸化炭素が、こういった煙からのものだということを思いだしていただきましょう。それを明らかにするために、私は海綿の上で燃えているこのテレビン油を、大気の成分である酸素をたっぷりいれたフラスコにいれてみようと思います。ごらんください。煙はすっかりおさまってしまいました。(中略)
 空気中でテレビン油の炎からとびたつところをごらんになったあの炭素は、いまはこの酸素の中で完全に燃え切りました。この大ざっぱなその場かぎりの実験によって私たちは、ロウソクの燃焼から導きだしたものと正確に同一の結論と結果とを見るのであります。私がこんなぐあいにして実験をお目にかけた理由はただ、私たちの論証の筋道を単純にして、皆さんが注意さえしてくだされば、論理のつながりをけっして一瞬も見失うことがないようにしたいためであります。(276−277ページ)


 上の実験だけで「炭素粉が酸素と結合して燃え切った」ことがわかるだろうか。酸素によって燃え方が変わった可能性はないか。炭素粉が燃えたのではなく、見えなくなった可能性はないか。
 実際にできるかどうかわからないが、燃えているテレビン油から煙(炭素)を取り出し、酸素中で燃やした後石灰水に通す実験をすれば、ファラデーの言わんとすることは論証できるだろう。彼はなぜそうしなかったのか。どうも私にはひっかかる。
 もしかすると彼は、想定される聴衆の思考に沿うのではなく、ファラデーの頭の中にある筋書きに沿って話を組み立てているのではないだろうか。予備知識のある人間には理解できても、一から学ぶ人間にはクエスチョンがつきかねない気がする。
 こんなことを書くのは、別にファラデーを批判したいのではなく、自省の材料として捉えたいからである。ファラデーに対する私の疑念は、そのまま私自身の授業に対する疑念である。論理的に話をつないでいくことがいかに難しいか、どうしたら誰にでも納得できるような実験を考えられるか、理科教師への課題を見せつけられた思いがする。ことにこの「燃焼」は、中学の化学反応の導入として今でも用いられている(ただし現行のカリキュラムでは、「化合」「分解」を先に中2で習い、「酸化(燃焼)」「還元」は中3で習う。この非現実さ!)だけに、この本で行われている燃焼の考察とそれについての実験、そしてその中の"論理のつながり"は大きな教材である。

 ファラデーといえば電気分解で登場する単位、そして磁力線の考案など、いかにも実験の積み重ねで自然と向き合ってきた人である。彼は生活保護を受けるような貧しい家庭に育ち、小学校に通う年頃で貸本屋の小僧になった。この本屋の主人が彼に、仕事の合間に本を読むこと、屋根裏部屋で実験をすることを許したのが、ファラデーの才能が開花するきっかけをつくったという。ファラデーが王立研究所でクリスマス講演を始めたのは、彼が与えられたようなきっかけを多くの人に返そうとしていたのかもしれない。
 日本学術会議では、「プロジェクトScienceX」と題して、全国の研究者75万人に少なくとも年1回、子どもや市民に研究の意義や役割を伝える機会を作るよう要請するという(毎日新聞5月20日)。理科離れを防ぐためらしいが、これはむしろ研究者の側にとっても有意義なものではないか。子どもにきちんと「論理的に」科学を教えることの難しさは、おそらく研究そのものの質を高める動機にもなるだろう。もちろんそこから次世代の"ファラデー"が出てくることも期待したい。
 なおこの「大活字本」は、社会福祉法人である埼玉福祉会によってつくられた限定500部のものである。字が大きいだけでなく、かなりの漢字に読み仮名もふってある。この本が大活字本に選ばれているのはさすがであるが、500部はいかにも少ない。私の感触では、重いのは多少気になるが、文庫本よりは読みやすい。なんとか採算がとれるようにならないものか。(2004/5/25)


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