精神科医はいらない  下田治美 角川文庫 2004年
   それにしてもカウンセリングに保険はきかないものか
 大阪から博多に行く夜行バスの中で一気に読み切った。読みやすい本である。
 診断能力がないのに薬だけをどんどん出す医者、患者に全く説明をせず講演会の準備にかまける医者、病院でありったけの薬を飲ませて悪性症候群で患者を殺しかける医者、担当がコロコロ変わるヤマギシ会の医者、うつ病を治せる医者に出会うまで何度も転院しなければならなかった患者…… 筆者は一般論として「精神科医はいらない」と言っているわけではもちろんなく、要するに無能な・不誠実な医者に対していい加減にしろ! と言っているのである。筆者自身がうつ病を経験しているので、患者に対する共感が文中ににじみ出ている。マスコミに出ている有名な医者の実態を暴き出しているくだりは、やや感情的でもあるが読み応えがある。
 私自身メンタル系の医者に何人もかかってきたが、話を聞いて「うちではムリだ」と言っておいて数千円の診療費をとられたり、話を十分に聞かずに薬だけもらったり、おかしな待遇に出会ったことがある。カウンセリングにしても、何万円も払ってどれだけ効果があるのかはっきりしないというのは、お金を出す側としては考えてしまう部分がある。
 こういう医者は困る、という話もよいが、患者のひとりとしては、こういういい医者がいる、という話も聞きたい。
 筆者は脳生理学の進歩を強調しているが、薬物や内科的(外科的?)療法だけで精神科がやっていけるのはまだまだ先のことではないかと思う。脳生理学に疎い医者の批判と、カウンセリングや精神分析などの心理療法そのものの批判は別である。このあたりについての記述はやや客観的でないきらいがあるが、これはこれでひとつの意見ではある。
 教師や医師というのはある意味で評価の難しい職種なのかもしれないが、少なくとも患者(教師の場合は生徒)の意見に耳を傾けられない、そのような余裕を持とうとしない医師には、やはり問題がある。さらに精神科の場合には治療が長期化することも多いので、医師の責任をより(第三者にわかるように)明確にする方法も考えるべきかもしれない。患者の評価による医院・病院のランキングが本になる時代であるから、逆に「この医者はこういう理由でお勧めできません」という情報がでてきてもよいかも?
 ひきこもりに関する斎藤環氏の意見に対する反論も迫力がある。一部引用する;

 ひきこもりとは、端的にいえば、対人関係をふくめ社会のシステム(体制)に適応しない、あるいはできない状態である。
 斎藤氏の論が、(社会のシステムという名の)体制側には理不尽や矛盾などの問題点はなく、体制は善であると前提して展開されている点に注目されたい。善であるから、「体制に適応しない、できない、ひきこもりは精神病である」と断定できるのである。体制に疑問を感じたり、批判的であったり、体制に適応しない人間が、ひょっとしたら、いちばん健全な人間である可能性もあるのに、そのあたりの想像力は見受けられない。臨床的眼識が欠落しているのではないだろうか。(217ページ)


 私はひきこもりについてあまり知識がないので、ひきこもりそのものに対する意見は控えたいが、「体制は善であると前提して〜」の部分には考えさせられた。たとえば現在の学校体制を善として前提する教師は多いだろうが、ひきこもりでなくても学校の体制そのものに疑問を持つ生徒に対して、教師は十分に対応できているだろうか。仮に教師が学校の体制を善と前提せざるを得ない存在だとしても、学校外の人間がその前提をたやすく容認していいのか。生徒は体制のために存在し生きていかなければならないのか。それは長期的に見て、結局多くの人間にとっての損失になっていないか。この問いはおそらくこれまで多くの人間からなされてきたものだが、私は自分が納得できるような答えに未だに出会っていない。
 人間が体制の中で生きている以上、現状に慣れてしまうと、無意識のうちに「体制を善であるという前提」を当然としてしまうことも多いだろう。しかし教師としては、たとえ自らが体制の中にいても、自らを含む体制を善だと決めつけるわけにはいかない。私自身がこうした現状に警戒しなければならないとも思う。
 最後に、精神薬によって肝障害が起きている例が強調されていることを強調しておきたい。(2004/5/7)


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