梶原一騎伝  斎藤貴男 新潮文庫 2001年
   マンガは面白いけど、こういう人とはお友だちになれません
 梶原一騎といえば言うまでもなく、『巨人の星』『あしたのジョー』『愛と誠』『タイガーマスク』などの原作者として有名である。最近コンビニでも彼の作品をよく見るから、今でもかなりの人気があるのだろう。
 今『愛と誠』を読み直しているが、私は『タイガーマスク』が一番好きだ。アニメの終わりに流れる歌を聴くと、今でも泣きそうになる。
 なぜこんなに『タイガーマスク』に惹かれるのか、その理由がわかるのではないかと思って、この本を読んでみた。

 梶原一騎のマンガは橋田壽賀子のドラマと似ていて、説教くさくセリフによる説明が多く、マンガとしては少し読みにくいきらいがある。それでも人気があるのは、ひとえにその中に登場する人物の魅力によるものだろう。聖人君子でなく人間くささがあり、失敗したり絶望したりしながら強い意志を持って運命に立ち向かう、そういうキャラクターの魅力は今でも変わっていない。本書の手塚治虫のエピソードも興味深い;
 手塚は突如アシスタントを集め、こう尋ねたという。
 「この漫画のどこが面白いのか、君たち教えてくれ」
 泣きべそをかいたような表情の手塚の手には『巨人の星』の単行本が握りしめられていた。(78ページ)

 手塚氏は宮崎駿にもライバル意識を燃やしていたというが、この発言にはマンガに対する価値観の違いが表れていて、考えさせられる。
 梶原氏は編集者の父親と病弱な母親を持ち、小さいときからケンカ好きで、ピストン堀口の影響でボクシングのファンになり、ケンカのせいで教護院に入れられ、文学に異常な才能を示し、高校を中退して小説家を志すが、結局マンガの原作者として仕事をしていくことになった。巨人の星の構想を練るあたりからこの本は始まるが、梶原氏が編集者の熱意にのせられながら共同して作品をつくっていく様子が生き生きと描かれている。(梶原氏があまり野球に興味がなかったということを、誰が信じられるだろう?)

 この本によれば『巨人の星』は父と子、『あしたのジョー』は師弟、『愛と誠』は男女の愛を主題にしたということらしい。他の2つはとにかく、『あしたのジョー』でジョーと段平の関係が主題になっているとは、私にはあまり思えない。むしろこの3つは、梶原氏の理想とする「男の生き方」が非常にうまく表現されている作品になっていると思う。今でも出てくる「男○○が……」とか「男たちの闘い」という表現は、任侠道の影響もあるのかもしれないが、梶原作品の影響が大きいはずだ。
 この「男が……」という表現を、私は好きになれない。彼が描く主人公の魅力の多くの部分は、主人公が男であることとは関係がない。スポ根は女性マンガでもあったし、女性のボクシングも現在はある。『女には男の世界はわからない』という意味のセリフがあちこちに出てくるが、これは差別というより一種の甘えか開き直りであって、子どもっぽい。
 思い当たるのは、母の不在である。上に挙げた作品の主人公には基本的に母親がいない。父親が出てくるのも『巨人の星』だけである。主人公の母親が出てくる梶原作品に『柔道賛歌』があるが、この物語では母親もまた柔道家であり、やや特殊な位置づけである。母親に普通に甘える主人公がどこにもいないのだ。
 この本によれば梶原氏の母親は病弱で、満足に育児をすることができなかったという。母乳が出ず米汁を飲ませ、父が幼い彼をおぶって職場につれていったこともあったらしい。それでも母親に添い寝をしてもらう順番を弟と争って、父が
 「女親はトクだよなあ。朝樹(梶原一騎)の小さい時なんか、俺が育てたようなもんなのに」(120ページ)
 とこぼしたという。幼い頃の彼は、母親の愛を求めながら与えられず、その屈折した感情が「男であること」の異常な強調として作品に現れたのではないだろうか。自分を主人公に投影させて、「母ちゃん、オレはこんなにかっこいいんだよ」と訴えていたのかもしれない。

 子どもっぽいというのは、マンガの原作者としては魅力でもある。彼のマンガが説教くさいのに面白いのは、オトナからの見下したようなえらそうな態度がなく、純真な正義感を持ち続けていたからだと思う。
 しかしおそらく、人間が子どものままで生きていくのは難しい。本当のオトナになるためには、親との関係を自分の中で完結させ、親との関係で成り立つような子どもらしさから抜け出さなければならない。梶原氏はそれができなかったのだろうか。妻と離婚したときの、真樹日佐夫(実弟)の言葉を見ると、そう思える;
 「あれを境に、兄貴の一番の魅力だった"稚気の名残"とでもいったものが、影を潜めてしまった。常に他人の目を意識した、構えた態度をとるようになったんだ」(203ページ)
 後年の暴力事件や逮捕も痛々しいが、作品に対する情熱がなくなっていく過程が読んでいて悲しい。『新巨人の星』の連載が終了したのは、漫画家の川崎のぼるの申し出によるものであるという。旧作の頃と比べての梶原氏のやる気のなさが、川崎氏に「もうこれ以上、何もかきたくなくなったんです」(283ページ)と言わせたのだ。
 親交がありながら後年決裂してしまった大山倍達氏は、最終的に梶原氏を破滅させたのは「酒」だと言っている。この本の後半を読んでいると、人間を信じられず他人との信頼関係をつくることができず、酒におぼれていく様子がまざまざと浮かぶ。
 救いは、晩年別れていた妻と復縁し、家族7人で最期を迎えることができたことだろうか。最終章「梶原家の父と子」は、孤独を救えるのは仕事でも格闘技でもなく家族でしかないということを訴えているようだ。(私自身はこのテーゼに懐疑的である)

 私が梶原作品に惹かれるのは、私の中にもある「母の不在」と「子どもっぽさ」のせいなのかもしれない。この本を読んでいる間に『タイガーマスク』に惹かれる理由がわかったが、ここでは書くのを控えさせてもらいたい。(2004/5/17)

 追記;『愛と誠』を読み返していて、主人公の母が出てきているのを見つけた。しかしそこで描かれているのは、母を失うことによって死を覚悟する、あまりにも悲惨な主人公であった。「おれは死にてえんだから……な!」とつぶやきながら敵に向かっていく、誠のその姿の背景に描かれているのは、飲んだくれ落ちぶれている母親の姿である。母が自分を受け止め得る「母」としての姿を失っていたことへの涙、そして絶望を胸に秘めて闘う姿は、彼が何のために闘ってきたのかを表しているように思えてならない。やはり梶原氏は最後まで、自分を受容してくれる「母」を求め続けていたのではないか。(2004/6/5補筆)


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