日常を愛する  松田道雄 平凡社ライブラリー 2002年
   患者のための医者、読者のための作者、生活のための思想
 松田道雄さんの本との出会いは、家にあった『育児の百科』から始まった。小学生の私はなぜかこの本を読みふけった。病気の説明のところに、どうやったら治るかだけでなく、どうやってうまく病気とつきあって生きていくかということも書いてあったように思う。この分厚い本が私を引きつけたのは、本質的に子どもの立場に立って書かれた育児書だったからだろう。今でも出産祝いにはこの本を贈る。
 もう少したつと『君たちの天分を生かそう』を読んだ。これはとびきり面白かった。次は中学生になる頃『恋愛なんかやめておけ』を読んだ。大学に入ると図書館で彼の本を探した。朝から晩まで図書館にこもって、1週間がかりで『松田道雄の本』シリーズ全16巻をむさぼり読んだ。あれほど熱心に本を読んだことはない。おそらくこれからもないだろう。
 松田さんは小児科医であり、かつてベストセラーになった育児書の著者であり、ロシアや日本の革命思想の研究家・翻訳者であり、エッセイストでもあったが、何よりもまず彼は「市民」であった。そのことを示すのがこの『日常を愛する』である。
 この本は毎日新聞に連載されたエッセイの最後の3年分を集めたもので、様々なテーマで書かれているが、どれも非常に読みやすい。難しい内容でもやさしい文章で表すことができることを、彼の文章は実証している。マルクス主義や最新の医学知識など、専門家でなければわからない世界であっても、日常との交点を必ず持ち得るということは、現在の研究者に対する警鐘にもなっている。もう20年以上昔の文章であるが、全く古くさくなっていない。私の文体の「先生」でもある;

 里親の家庭に実の子がいる場合には、新しくきた子どもをかわいがる親とのあいだに感情のいきちがいもできる。大学生だと下宿してしまうこともある。中学のとき、さんざなやんだ娘が、高校にいくようになってから
 「幸福というのは人もいっしょに幸せになり、それといっしょに喜べるというのが幸福やわ」といった。
 学者とか、思想家とか、宗教家とかも、そういうことがいいたくて、日々努力しているのだが、この高校の女の子ほどの実感をもっていえる人は少ないだろう。(53ページ)

 戦争がこわいという気持ちは、自分が臆病であることと無関係でない。戦争がいやだというのは、自分の身内や、つくりあげたものを失いたくないというエゴイズムからかもしれない。そういう私ごとから、戦争という国と国とのおおやけごとに反対していいのかという疑念もなくはない。
 湯川さん(湯川秀樹氏)は、私たちの心にきざすそういう疑念にたいして、国と国とにかんするよりも、もっとおおやけのことがあるのだ、臆病であることを恥じるな、エゴイズムをもっていてもいいのだ、戦争をこわがれ、戦争をいやがれと、はげましてくださっていたのだった。(98ページ)

 民主主義は、たしかに自由をもたらした。封建時代からの遺産であるムラ共同体から、自由な個人として私たちは解放された。
 だが、表現の自由だの、結社の自由だのを使って、私たちは、ムラとは別の、しかし、ムラによく似た不平等な集団をまたつくってしまったのではないか。不平等というのは、ボスに支配をまかせて、ボスの力でかたまっているからだ。(中略)
 自由のはきちがえといわれるが、はきちがえでなく、対になる平等が未発達なのだ。平等を自由にえらびとった独立した個人は、テレビにも週刊誌にも登場しない。戦後の民主主義は、まだ十分に育っていない。(157ページ)


 すべての文章に通じているのは、日常を生きる市民への愛情と、平凡な日常生活そのものが持つ(はずの)尊厳の主張である。マルクス主義との関わり、戦前戦後を通じた共産党との関わり、様々な政治運動との関わり、そして膨大な量の勉強と長い間の医者としての生活、それらから松田さんの出した結論がこの「日常を大切にすること」だったのだと思う。長い間『暮らしの手帖』にエッセイを書いていたのも、日々の暮らしを大切にするこの雑誌の姿勢に強く共感してのことだっただろう。
 私が大学に入ったのは、"学生運動の最後の燃え上がり"というような時期で、色々な政治団体が学内を出入りし、学生運動に身を投じた友人も何人かいた。その頃に読んだ松田さんの『革命家の肖像』(松田道雄の本9)は私の若さを十分に刺激したが、しかしトロツキーの生涯の物語を読み通して涙を流したにもかかわらず、私自身がトロツキーのように政治に身を投じようとする気持ちにならなかったのは、この感動的な伝記の裏側にある「醒めた目」のせいだったのかもしれない。その時に気づかなかった松田さんの"真意"が、この本でわかった気がする。
 松田さんは医者としては主張も行動も十分されていたが、政治活動家ではなかった。彼は診察をやめた後も亡くなる寸前まで、医者としてそして「市民」として発言を続けた。その発言内容は十分政治的であったが、彼の発言がどれだけ政治的に検討され活用されたのか私には疑わしい。「市民」の意見は政治家にとって重さを持たないのだろうか。これはこれからの日本の民主主義にとっても大きな論点である。
 全面的に賛同しているわけではないという留保の上で、若い人にぜひこの本を読んでもらいたい。後に出版された『私は女性にしか期待しない』(岩波新書)も読みやすい。性教育に興味がある人は『恋愛なんかやめておけ』(朝日文庫)を、そして医療関係の人には(入手が難しいかもしれないが)『安楽死』(岩波ブックレット)の一読を強く勧めたい。(2004/6/1)


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