世界の中心で、愛を叫ぶ  片山恭一 小学館 2003年

   喪失の重みは青年に何をもたらすか
 言わずとしれたベストセラー。生徒に勧められて読んでみた(事情があって写真が出せません)。
 こういうフィクションは最近読んでいないので最初はやや違和感があったが、後半は一気に読み通した。
 世間では「純愛小説」と言われているようだが、こういうのを本当に純愛というのかどうかよくわからない。彼女への想いを一生貫き通すのならそう言えそうな気がするのだが…… 違うのかな?
 思春期の恋愛は、ある意味ではホルモン分泌の過剰から起こるニキビのようなものである(バカにしているわけではない。私もそうだった。念のため)。実際この小説中でも主人公の男の子は「さかって」いる。高校生の男の子の心理描写はよく書けているが、とりたてて美化するほどのものではないと思える。入院している彼女を連れ出そうとするクライマックスは、高校生の話としては面白いのかもしれないが、……まあこういう話にロマンを感じる人も多いのでしょう。
 むしろ私は、愛する者を失った主人公の気持ちに興味がある。彼女が亡くなってからの主人公の心理描写は文学的過ぎて実感できないが、迫力は十分感じる。最後のエピソードは、愛する者の喪失の悲しみを乗り越えたという意味なのか? 愛する者を失った悲しみを「悲しみ終わる」ためには、次の愛が必要なのか?
 35年前に自動車事故で亡くなった母親の記憶は、私にはない。親を失ったことの重みは、現在の私の中にはないような気がする。それは「乗り越えた」ということなのだろうか。形を変えて心の中のどこかに残っているのか。たとえば子どもを失った親はその悲しみを「乗り越える」ことができるのか。
 この小説とそういう例をくらべるのは不謹慎なのかもしれないが、どうも筆者の最も大きなテーマは「愛」ではなく「死とその受容」という気がしてしまうのだ。それはこの物語が時間に沿ったものではなく、彼女が亡くなった後の彼を中心として流れているからである。またおじいちゃんとの多分に宗教的なやりとりの中にも、骨へのこだわりにもそれが感じられる。
 そうだとすると、これからの主人公が彼女の死をどのように飲み込んで生きていくのか、彼がおじいちゃんになったとき、孫に対してこの物語をどう語るのか、そういう興味が湧くが、それらは本の外側にある。小説を読むとよくこういう欲求不満になるのは、私がゼイタクなのだろうか?
 映画やコミック、またテレビドラマにもなるらしいが、生徒の話によると映画はもうひとつだったらしい。まあこれだけのヒット作だからもうけたいというのもあるだろうが、続きを知りたいという欲求不満を解消するためにそのようなものをつくろうとする人もいるのかもしれない。自分の望む「その後」を想像できる人には、そういうものは余計なお世話なのだろうか。
 なお、この本や映画が骨髄バンクの普及に貢献することを望みたい。(2004/6/11)


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