本音で迫る小論文  梵我堂主人・田村秀行監修 大和書房 1988年
   小論文の道は世界に通ず
 随分前に高校生の小論文指導をしたことがある。当時理系の小論文の書き方は手探りの状態で、国語の先生に聞いてもあまりいい参考書がないという答えだった。いくつかテーマをつくって書かせてみると高度な指導どころではなく、結局「何が言いたいかはっきりした文章を書かせる」だけで手一杯だった。
 それ以来、本屋に行くと小論文の参考書に目がいくようになった。文章の指導とはどんなものか。小論文はどんな基準で採点されるのか。その後も高校生から参考書を聞かれたりしたのでいくつか目を通してみたが、もうひとつ納得できなかった。
 この本が私にとって十分納得のいくものとは言い切れないが、1つの面白いアプローチだとは思う。
 小論文は普通、あるテーマに沿って書くか、ある文章に対しての意見という形で書くかのいずれかである。どちらにしても、テーマに対して普通に考え出される結論、または文章として与えられた意見に対して、自分の意見をどう対比させるかが問題になる。
 文章の評価の基準としては、 (1)内容が理解しやすいか、 (2)内容がテーマに沿っているか、 (3)内容にユニークさがあるか あたりになるだろうが、このうちどれを重くとるかが作戦の立て方として問題になるだろう。  この本では、必要なところに要点が太字で強調されており、ポイントがわかりやすい;

 ・小論文では皆の言えることを言っても意味がない。
 ・小論文では採点者と同じレベルの内容が必要とされる。
 ・小論文では、学力には目をつぶり、ユニークさを求めている。
(14−15ページ)


 参考書というのはおおむね断定的なものだが、すべての大学の採点者がこのような基準を持っているのかどうかは疑わしい。半分は受験生に対する安心剤のようなものだろうが、勉強の方針として大筋がまちがっていなければ十分意味はある、ということか。
 筆者の梵我堂主人については、裏表紙に「宝暦十四年五月京師に生まる、云々」と書かれており、監修者となっている田村秀行氏と同一人物であろう。このように視点を2つにすることで本としても面白くなっている。

 ・小論文には「含蓄」は不要であり、むしろ悪である。
 ・小論文の採点者は、諸君のことをまるで知らない赤の他人であり、書かれていることからしか諸君を判断してくれない。


監修者談 これは梵我堂の本音だとは思えない。この男は本来文章の多様性を強調する人間であるから、ここでは「小論文」の参考書だということで、己を殺して書いているのであろう。(中略)それにしても筆者の立場は可哀想なこと。監修者は気楽だ。呑気なもんだ。〕

筆者談 (前略)今のお返しに言ってやれば、文章の読み方は多様であり、主観的な読み方や誤解の方が創造に結びつく率は高いのであるから、客観的読解の有効性はあくまで場合の問題である、と言いたいはずのところであろう。〕

監修者談 余計なお世話である。(中略)著書が自分の意図と違って読まれることは世の常である。オギノ式だって、本当は避妊法ではなく受胎法だったのだ。と、関係ないことまで言いたくなってしまうから著者は余計な口をはさまずに、本文の進行に専念するように。こういう口出しは監修者の特権なのだ。〕(46−47ページ)


 このようなツッコミ合いを1人で書くのは、簡単ではないだろうが面白いし、思考力をつける練習にもなる。この本の形式自体が、読者にとって文章を書く発想の見本の1つになっているわけだ。
 前半は理論解説編、後半は実際の例文の添削例が挙げてある。特に具体的な文章について、余計なところを削る方法は、小論文以外にも十分参考になる。
 読みやすくわかりやすく面白い文章を書く技術は、小論文に限らず世の人にとって大きな価値がある。文章の書き方についての本はたくさん出ているが、こういう受験用の参考書も案外一般に役に立つのではないか。少し古い本だが、代ゼミではまだ売っていたので、興味のある人には一読を勧めたい。(2004/6/30)


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