夜回り先生  水谷修 サンクチュアリ出版 2004年
   子どもに寄り添うための「オトナの条件」
 テレビでお金持ちとか"地位"のある人を見ても特段うらやましいとは思わないが、いい先生と言われている人を見ると、正直うらやましいと思う。子どもに慕われている、それだけのことをしている人には羨望を感じる。自分がいい教師になりたいというより、自分でない誰かが子どもに慕われていることに嫉妬してしまう。情けないような気もするが、事実だ。
 筆者は横浜で夜間高校の教師をしているが、この本の中には高校のことは一行も出てこない。学校が終わった後に夜の街の見回りをする筆者が出会った若者たち、その若者たちと筆者がどう接していくかということだけが綴られている。自ら書いているように、彼はこの本の中では『教師』ではない;

 夜の繁華街で一体どれくらいの時間を過ごしただろう。そこで何人の子どもたちと出会っただろう。いつでも私は寂しかった。大好きな子どもたちと出会いたくてしょうがなかった。私と子どもたちは見た目は違っても、中身はなんら変わりはない。私は大人になりきれない大人なんだと思う。(39ページ)

 オトナになりきれないオトナ、という書き方には非常に共感できる。彼は『夜の世界』をやたらと強調しているが、私の勤めている塾だって『夜の世界』である。ストレスの深さや質が違っても、塾の世界にも子どもたちにとって『夜の苦しみ』というのがあるのかもしれない。(『昼の苦しみ』もあると思うのだが)
 非常に読みやすい本なのだが、筆者の後ろにあるものが少しずつ見えてくると、何とも言えない重苦しさを感じ始める。彼の行動は、彼の生い立ちとそこから来る勇気に支えられている。この本を読み始めたとき「筆者から見習えるもの、盗めるものはないか」と思っていたが、途中からその考えは消えた。私はこんなふうにはなれない。彼をうらやんでも意味がない。私は私の方法でしか子どもには寄り添えない。そんな気がしてきた。
 人間を、その育ち方で差別したり区別することに私は反対だ。それは建前だけではなくて、過去が未来をしばるという発想そのものが、結果として人間の未来の可能性を狭めると考えるからだ。
 しかしこの本を読んでいると、過去が未来をしばるということが現実としてある、という気にさせられる。彼には彼にしかできない子どもへの寄り添い方があって、それは彼の歴史と直接つながっている。私も私自身の歴史からつくられた子どもへの感情、子どもに寄り添う気持ちがある。彼にできて私にできないことがどれほど多くあるとしても−−−私は私の過去がつくった限界にしばられながらやっていくしかないのではないか、と思える。
 これは私が、そういう"過去にしばられる"年になってしまったからなのかもしれないが、それにしても教師、というより"子どもに寄り添うためのオトナ"としての限界を感じさせる。どんなに子どもが愛しくても、私は子どものために指を詰めることはできない。私のできることが彼のしていることと対等になり得るのかどうかもわからない。様々な立場や"過去"を背負った人間が子どもと関わり寄り添うことが必要だと思うが、もし最も教師にふさわしいタイプがあるとしたら、私ではなく彼だと言うしかない。
 それにしても、子どもを巡る家庭や友人や社会の状況は読んでいて悲しい。『親の子どもへの愛情』というのはフィクションではないかとさえ思う。子どもを育てるのには間違いなく愛情が必要だが、愛情がなくても子どもを産むことはできる。精神論ではなく、子どもを愛する力を持つ親をどうやって「つくって」いくかが問題である。子どもを支える「遊び社会」や地域の共同体がこわれている今、子どもにとっての生活の基盤の保証は、年金問題などよりよほど重要ではないかと思えるが、どうなのだろうか。(2004/7/20)


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