生物学の旗手  長野敬 朝日新聞社 1975年

   斜めから見る科学史の魅力

 「栄光なき天才たち」で書いたように、授業の余談としては研究者の伝記が面白いのだが、よいネタがなかなか見つけられない。科学史の専門書を見ても自分には消化しきれず、逆に子ども向けの本は何か物足りない。ゴシップやできすぎた模範的研究話ではなく、もっと生々しい、学問に向き合う人間そのものの話を生徒にしたい。
 この本は、教師になるなど考えもしなかった学生時代に読んだ。不勉強な大学生だった私は単位を落としまくり、未だに生物学の基礎があやふやなのだが、中でも生物学関係の本をほとんど読まなかったのが恥ずかしい限りだ。そんな私でもこの本に十分興味を持てたのは、筆者の卓越した筆力と博識のおかげである。
 「旗手」というのはもちろん研究者のことで、古代から1960年代あたりまでの生物学者について、その人柄と研究との関わりを描いている。古くはプリニウスから最後はクリック・ワトソンまで、30人あまりの人物伝が描かれる。
 たとえばパスツールに関する文章はこんな調子である;

 パスツールには、欠点というものはない。あるのは、美点の過剰である。完全無欠できまじめな人物。大科学者にして博愛家。「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」といいつつ、プロシャ対フランスの確執にあたっては、ボン大学から贈られた学位記を「プロシャ皇帝に対する憤激のあかしとして」つき返すような模範的愛国者。自然発生説を完璧な実験で葬り去ったが、生命の最初の起源という魅惑的な泥沼には断乎として足を踏み入れなかった意志堅固な戦略家−−日本と限らずどの国の文部省にしても、尊敬する人物として百パーセント保証つきで推薦したくなるような人柄であったと思われる。
 彼の伝記が、また模範的である。女婿ヴァレリー・ラドが書いたその伝記は、大科学者の偉業と美徳を伝えて余すところがない。そうしてそこには、次のような文章も見いだされる。「彼は皮肉が嫌いであった。不まじめな人間の諧謔や懐疑は、人間の活動を破壊するものとみなしていたからである。」本稿の筆者などは、破壊活動のかどで、しばり首になるに相違ないのであるが、右の文章は巧まずしてパスツールの人柄をいいあてているように思われる。(164−165ページ)

 研究者の業績と思想に関わりがあるのはまちがいないだろうが、業績と「人柄」にどんな関わりがあるのかは、外側から見てもよくわからない。しかし教科書の記述と違って実際の研究は理論体系に沿ったものとは限らず、失敗や誤解に満ちたものである。まして生物学はもともと、理論体系ではなく研究者個人の自然そのものへの(偏った)興味と観察・考察によって深められた側面が大きい。したがって研究者の人格とその業績に、理論には現れないつながりがあることは疑えない。そしてこのつながりは、偉人伝のような伝記よりはるかに魅力的に読者を学問に誘うだろう。
 それにしてもこれだけの本を書くためには、どれだけの勉強が必要なのだろうか。生物学の体系的知識、科学史、研究者の伝記などに精通するための勉強量は、私には想像できない。面白い本を読むたびに、自分の世界が広がる楽しみとともに、自分の不勉強に落ち込んでしまうのは、いいのか悪いのか……(2004/8/18)


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