灯し続けることば  大村はま 小学館 2004年

   教師の思いは多彩であるべき

 教師の世界で「伝説」になっている人には、国語の教師が多いような気がする。林竹二・斎藤喜博・大村はま……諸氏などなど。理科教師の私でもこれくらいの名前が出てくるから、偶然ではないように思う。国語教師が本(文)を多く書くので残りやすいのか、国語の授業法が他とくらべて個性を出しやすいのか、とにかく学生時代国語が大嫌いだったくせになぜか国語教師の本にひかれる。大村さんの本も一度しっかり読みたいと思っていた。
 大村さんは高等女学校や戦後の中学校で52年間国語を教え続け、定年退職後は執筆や講演活動を続けられ、もう99才(!)である。戦後すぐの時代には、新聞記事を教材にしていたそうだ;

 うちには古新聞紙がたくさんありました。その新聞で教材をつくろうと私は思いつき、新聞を切り抜いて、一つ一つ教材をつくっていきました。コピーなどありませんから、一人一枚として何百と作らなくてはいけません。そしてそれぞれに「学習のてびき」のようなものも作って添えました。(68ページ)

 大村さんに限らず昔の人はパワーがあると思うが、それにしてもたいしたものだ。私は生徒と「簡単交換日記」をしていたが、ひとり2行書くだけでも十分しんどい。彼女のこのパワーだけでも子どもはひかれただろう。
 この本は短文を集めたものなので非常に読みやすい。目次だけでも考えさせられる; 「熱心結構、いい人あたり前です」「子どもの目に映る顔であることを意識していたいものです」「教師として老いないために、研究授業をしていました」「伸びようという気持ちを持たない人は、子どもとは無縁の人です」「自分が自分らしくないときには、小言を言わないようにしていました」「教師が少しは傷つかないと、子どもはつまらないのです」…… いいかげん耳が痛いが、こういう言葉と向き合いながら仕事を続けなアカンというのは、理想とか意地ではなくもはや「必然」である。今の日本で本気で子どもと向き合おうとすれば、自分の中に適切な理想を持ち成長を目指さなければ、まともな教師としてはやっていけないだろう(私も……まだまだあきまへんなぁ)
 ただ、大村さんの考えに全面的に同意できるわけではない;

 戦後の教育で最大の失敗は、教師が教えなくなったことだと、私はつくづく思っています。「子どもの個性・主体性を尊重する」ということばが、「教える」ことを背後に押しやっていったようです。
 たとえば、作文の授業のときに、生徒が書いている間、教壇のところでじっと見ている、あるいは忙しいからといって教壇で別の採点をしていたりする方もいます。「さあ書いてごらん」と原稿用紙を渡されただけで、子どもは書けるものでしょうか。他の子どもがすらすら書いていたとしても、書けない、何を書いていいかもわからない、そんな苦しんでいる子どもはいないでしょうか。生徒の間を回って、書く題材のヒントを言ったり、ちょっと書き出しの文を与えて「そこから先を書いてごらん」と示したり、いい表現が見つかるようなヒントを出したり、そういうのが教えるということではないでしょうか。
 そういうことをすると、子どもの個性が損なわれる、主体性がなくなると批判なさる方があります。でもこうして基礎的な力を身につけた人が、それから個性を花開かせていくのです。あとで作家として立つような人が、教師が書き出し文を与えたために個性を失って型にはまってしまったなんてことがあるでしょうか。
 本当に特殊な才能というものは、私たち教師が三年や五年いじったからといって、壊れはしないでしょう。それに、ほとんどの人は天才ではありません。教師が教えてくれること、それによって伸びることを心の底から待っているのです。(84−86ページ)

 この文のタイトルは「教師がいじったからといって、個性は壊れたりしません」だが、私は「教師や親がいじって個性を出せなくなってしまった子ども」をたくさん見てきている。書けない子どもに対してアドバイスをするのは、場合によっては子どもの書くパワーをそぎ落とすことにもなる。個性をいじるのではなく、個性を共同して掘り起こす作業が必要なのだ。そして「子どものいじり方」にはまさに子どもの個性が関わるから、大村さんのやり方が正しいとは限らない。作文が書けない子に対して、アドバイスした方がいいこともあるだろうし、書けなくても時間をかけて悩んだ方がいいこともあるだろうし(まさか「紙に書く」ことだけが作文を書くことだとは、大村さんも思っておられないだろう)、場合によってはその場で書かせず他の作業をさせる手もあるだろう。
 おそらく大村さんは「子どもを放っておくな」という意味で書いているのだろうが、その場で手をかけないことも、放っておかないことであり得る。教壇で別の作業をするのはたしかによくない(私は……時々やってました、反省)が、個々の書けない子どもに対してどう対するかは教師と生徒の個性で決まると思う。もしどうしても書けない生徒がたくさんいるのなら、その授業設定そのものがまちがいであって、作文を書く基礎訓練に戻すべきだ。
 教師が教えてくれること、それによって伸びることを待っている、というのはまちがいではない。しかし私から見ると、むしろ今の子どもは「自分で自分を伸ばす機会」をもっと待っている。そしてすべての子どもは天才である。私たち教える側が、天才を凡才にしているのだ。すべての子どもは"特殊な才能"を持っているので、それを信じられない人は教師ではない。もちろん作家としての才能を持っている子は少ないだろう。しかし作文は作家だけのためのものではない。すべての"天才"にとって、文章表現能力と文章を書く喜びは必要である。作文はつたなくても自分を表すから、その中に天才が隠れているかもしれないのだ。自分の考えを正確に表す力を磨くためには、作文の書き出しではなく、書き上がった文章に対して「いじる」必要があるだろう。まだ書かれていない内容に対して「いじる」ことはできないからだ。そして書くことの喜びを伸ばすために、大村さんのようなやり方が本当にいいのかどうか、私には確信が持てない。
 えらくエラそうなことを書き連ねてしまったが、この違和感はおそらく「教師の個性」から来るのだろう。実際に大村さんの授業を目の当たりにすれば、彼女の子どもへの視線・言葉のかけ方・問いかけ方、すべてが勉強になるに違いない。吸収力は教師にとって絶対に必要である。しかしそれでも、教師の個性を押さえることはできない。基礎は誰しも必要であるが、教え方は教師ひとりひとりすべて違うのだ。大村さんの穏やかな情熱に感服しながら、そして日本の教師が培ってきた授業の遺産を学びながら、しかし私たちは自らの個性に対して忠実であるしかない。……と言うより、そう言い切れるほどの授業ができるようにならなければ、この本の本当の価値は見いだせないのだと思う。(2004/12/1)


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