じょうぶな頭とかしこい体になるために
              五味太郎 VS. 子どもの疑問・悩み・希望
          五味太郎 ブロンズ新社 1991年

   ちょっとした発想の違い? 多分そうではなくて

 1年だけ小学生の国語を担当したことがある。国語についてはまるっきり素人だったので、その分けっこう"遊んで"いた。漢字の練習で同じ字を何回も書くのは飽きるので、熟語や文章をいくつも書かせたり、文法の練習で新聞の社説を読ませたり、毎月作文を書かせたり。授業は普通のテキストがあるのだが、授業前早く来る生徒(小さい子ほど早く来る)の相手をするのに、なにか道具がほしいと思った。ことわざカルタとか色々買いあさっていた時に、同僚の先生から五味太郎さんの『ことわざ絵本』を教えていただいた。それまで五味さんのことは全く知らなかったが、この本をきっかけとして何冊か読んだ。私が一番好きなのはこの『じょうぶな頭と〜』である。

 大人の言うことは素直にきいて、決められたことはきちんと守り、出された問題にはうまく答え、与えられた仕事はだまってやる。決してさぼったり、ごまかしたりはしない。それが「かしこい頭とじょうぶな体」のよい子です。
 言われたことの意味をたしかめ、決められたことの内容を考え、必要があれば問題をとき、自分のために楽しい仕事をさがし出し、やるときはやるし、さぼりたいときはすぐさぼる。これが「じょうぶな頭とかしこい体」を持った、これもまたよい子です。
 この本は、頭がもっとじょうぶになるための、体がもっとかしこくなるためのトレーニングです。(3ページ「はじめに」)


 学校や塾でこのような文章にお目にかかることは実は少ない。もちろん「意味をたしかめ」「内容を考え」「やるときはやる」とよく言われるが、実際にどこまでそれが保証されているのかあやしい。教師から言われたことの意味をいちいち確かめていたら普通の授業は進まないし、どの問題を解くことが必要なのか自分で考えることも少ない。サボリ方を教えることもほとんどない。タテマエがどうであろうと、多くの学校や塾で教えられているのは「大人の言うことは素直にきいて〜」の方になってしまっている。一方子どもがよく読む本やマンガの中にも、このようなことをまじめに書いている本は少ないだろう。
 私も通信を出していたが、彼のような視点を持って文章を書くことはほとんどできなかった。自分で考えるということはなにかにつけて個性的にふるまうということで、そのような内容の本そのものにも筆者の個性がよく表れる。
 「ぼく算数がきらいだ!」「学校には行かなくちゃいけないの?」「なぜ友だちと競争しなくてはいけないんだろう」「わたし美人になりたい!」「動物好きの人ってほんとうにやさしいの?」「わたし目が悪いの…」など、1〜2ページで1つのテーマを扱っており、平易な文章で小学生でも読める。

 国の旗、国の歌などが活躍するのは、その旗、その歌によって国の人々がひとつにまとまりたいと思うときです。運動会のときの白組赤組の旗、そして応援歌などといっしょです。
 オリンピックや万国博覧会のときなどはとても有効です。ですから国旗、国歌を大切にし、たとえば学校生活の中にも取り入れようと考える人々は、それによって国のまとまりを考えているわけです。
 しかし、国というものはまとめるとかまとめないとか言っているようなものでなく、国民の意思にかかわらず、やや自然発生的にまとまってしまっているような気がするというのが、とくにこの日本という国の人々が抱いている実感ではないだろうか。そこであえて国旗だの国歌だのを持ち出されると、少し変な気がするということでしょうか。そして、さらに国をまとめてどうするのかと考えると、ほかの国と闘うため、ということしかありません。オリンピックはスポーツ専門で国と国とが闘うというルールになっているからわかりますが、それ以外に闘うといったところで、いったい何を闘うのでしょうか。ひょっとすると戦争でしょうか。(57ページ「国歌、国旗について」)


 国(国家)はもともとは自ら選んで所属している集団ではないから、まとめようとする方にムリがあるのではないかという気持ちが、私にはずっとある。これだけ思想や行動が多様化してしまっている中で、同じ国の人だからといって何かの目標に向かってまとまれるものだろうか。むしろ必要なのは、まとまらなくてもやっていけるようなルールを考えることではないか。ヘンな言い方だが「まとまらなくてもいい、まとまらないでやっていく、という点でまとまる」ということ以外に、民主主義を実現する方法はないと思う。
 オリンピックは本来理念としては国と国との闘いではないのだが、実際にはそのようになってしまっている。国がスポーツを支えているというより、国が国民をまとめるためにスポーツ(オリンピック)を利用している、というところだろう。だから旗や歌にこだわるのだ。本当にスポーツを愛するのであれば、国ごとに分かれて闘う必要もないし、自国の選手にこだわって応援する必要もないし、国歌だの国旗だのはいらない(むしろスポーツを楽しむには余計)だろう。私は歌や旗を掲げるナショナリズムは一種の「宗教」ではないかと考えているが、ここではそこまでの極論ではなく、子どもに理解しやすい表現と内容でまとめられている。子どもが読むなら、私の文章などより絶対彼の文章であろう。

 自分の得意なことで仕事をしたいとか、自分の好きな仕事をして生きてゆきたい、などと言いますと、たいていの大人は、そんな甘いもんじゃないとか、そう都合よくはゆかないものだよ、などと言います。仕事はつらいもの、おもしろくないもの、仕方ないからやるものと相場が決まっています。食うために働かなくちゃならない、家族を養うために働かなくちゃならない、生活のために働かなくちゃならないんだ、だからガンバルのだ、というわけです。そしてなぜか突然、労働するということは尊いことだなどと、よくわからないことを言ったりします。そういうわけのわからないことを口走っている大人につきあう必要はありません。はじめから言い訳しているみたいな仕事観を持つ必要はありません。仕方ないから仕事をやっているというような人の仕事を信用するわけにはゆきません。いやいややっている操縦士の飛行機には乗りたくはありません。好きで焼いているパン屋のパンはなんだかおいしそうです。得意なこと好きなことでなければ自分の仕事として自信が持てない、得意なこと好きなことだから自信がある、というのが本当だろうと思います。(111ページ「仕事をしたい!」)

 これは子どもだけではなく、これから就職しようとする学生や、もう仕事をしているオトナにとっても重い文章だ。私はわがままなので自分のしたいこと以外を仕事にしたことがないが、それが結局自分にとってもまわりにとってもよかったのかな、と思う。もちろんやむを得ず自分のしたくない仕事に従事しているオトナもたくさんいるだろうし、それが悪いことだとは思わないが(イヤイヤでもちゃんと操縦してくれれば私はかまわない)、これから仕事を選ぶ子どもにとっては楽しさをめざしてほしい。
 みんなが憧れる・人気のある仕事と、自分にとって楽しい仕事は少し違う。たくさんお金が儲かる仕事、有名になれる仕事、クビになる心配がない安定した仕事、そういうものが楽しい仕事とは限らない。本当はどんな仕事にも楽しさがあるだろうが、自分の個性や才能に合った楽しさを見つけて選び取るのが人間にしての幸福だろう。個性や才能を見つけるための努力や訓練が必要であるが、学校や塾はそのような機能をどのくらい果たしているだろうか。人間の個性が国語や理科や家庭科でどこまで引き出せるのか。本来比べる必要のない人間の才能を、相対的な基準だけで判断することに意味があるのか。大人の都合のいい基準で、勝手に子どもの才能や個性を決めつけていないか。
 私は今まで「あなたはこういうところがすばらしい。才能があるかもしれないよ」とたくさんの子どもに言ってきた。それがどれだけたしかな根拠を持っているか、それで子どもが自分の才能を信じて磨くことができるか、子どもの才能を見つけて磨くのにどれだけの手伝いができるのか、1つ1つ検証することはできない。教師は教科を教える力は持っている(ことになっている)が、人間の才能を見抜く力を持っている保証はない。要するに運が悪ければ、子どもは好意的なオトナ抜きで自分の才能を見つけ出し磨かなければならない。根本に必要なのは、自分の才能を信じる力と根気と確信である。そのために、この本の文章は大きな励ましになるだろう。
 五味太郎さんの本では先の『ことわざ絵本』の他に、『おとなは・の・が問題』など子どもの立場に立っておとなの文化を批判的に評しているものがあり、それぞれに面白い。デザイナーから転じて絵本画家になったという方だが、この人がどのようにして自分の才能を見つけ仕事にしていったのか、いつか読んでみたい。(2005/3/29)


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