ビタミンF  重松清 新潮社 2000年

   希望を描けば希望が見えるか

 妹は筋金入りの小説マニアなのに、高校を出たあたりから私はほとんど小説を読まなくなった。文学的な描写が苦手なせいなのか長い本を読む根性がないのか、とにかくここ20年ほどは自分から小説を読もうと思わなかった。
 せっかくHPでこんな文章も作っているのだし、たまには旅先で小説を読もうと思ってこの本を図書館で借りてみた。大きい本で読み切れるかどうか不安だったが、のってくるとあっという間で3時間くらいで読破した。一度引き込まれると勢いで読めてしまうのも小説ならではか。
 この本は7編の短編集で、いずれも父親の目から家族をとらえたものだ。親に暴力をふるっている近所の中学生にどう関わるか、いじめに遭っている娘にどう声をかけるか、離婚した母親と復縁しようとする年老いた父親の気持ちをどう理解するか……、ありふれた日常の中でのちょっとした変化や事件を通して、家族がどう変わっていくのかを描いている。ビタミンFというのは実在しない物質で、Family, Father, Fight, Fragile, Fortune ……などにひっかけているのだという。この中で言えば文句なしに Family が一番大きいテーマのような気がする。
 NHKのドラマにもなった話で、どの物語も最後は何となく収まるべきところに収まっているし面白いのだが、なんとなく何か物足りない。なんでやろ。
 うまく言えないのだが「短い」のだ。文や話が短いのではなく、物語そのものが短くてあまり余韻が残らないように感じる。いじめられている娘の話も時間の経過としては長いのだが、娘の側の描写が少し薄いせいか感情移入しにくい。いじめられていたことを親に隠し続けていた娘が、そのことをやっと親とわかりあって泣くシーンはよいのだが、娘にとってこれで問題が解決したわけではない。第一歩を踏み出したにすぎない。ここで話が終わると、どうも階段の踊り場で取り残されたような気分になってしまうのは欲深いのだろうか。こういう物語の終わり方は逆に余韻が残ってよい、という感覚もあるのだろうが、私にはどうもなじめない。父親が主人公であるのはよいのだが、父親の主観的な視点が主になりすぎていて、父親から見えないところが意識的に無視されているようにも見える。そのために家族の問題の全景が見えず、問題の本質がぼかされているように思えてしまう。
 違いすぎると言えばその通りだが、こういう話を読むといつも『ER』と比べてしまう。ERで登場する幼児虐待や麻薬中毒のエピソードは救いがなくやりきれないパターンが多いが、実際にそのような救いのない実例が多々あることを考えれば、ハッピーエンドにならない物語の方が迫力があるし、その中で少しだけある救いに余計に感動できる。それはある意味で「手加減」をしていないからだと思う。重松氏が手加減をしているというよりも、この物語の形式としての「短さ」が必然的に手加減を招いてしまっているようにも思える。
 つまるところ 私がこういう物語に欲求不満を感じるのは、現実に近い記録的な作品の方が迫力も説得力も感動も上回ってしまうように感じるからだ。本多勝一氏がどこかで「小説を現実が越える時代になったのではないか」と書いていたように覚えているが、そうだとすればこれほど小説家にとって受難の時代はないだろう。実際の「いじめとの闘い」の記録などと比べると、やはりこの小説の視点は甘く見える。それは父親や家族のあり方が根本的に問い直されていないからだと思う。ちょっとしたきっかけで「希望」が見えることがあっても、それだけで終わってしまえば本当の「希望」にはたどりつけないのではないか。ここまでつらい書き方をするのは、私が悲観的すぎるのか?(2004/12/23)


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