ファザーファッカー  内田春菊 文春文庫 1996年

   有害な親をどうしたら排除できるか

 内田春菊さんのマンガはあまり好きではない。『南君の恋人』『水物語』もよくわからんかったし、妹の家で『私たちは繁殖している』を読んでもあまりピンと来なかった。幼い頃の刷り込みなのか、このタイプの絵には基本的にあんまりついていけない。この本のこともなんとなく知っていたが、ブックオフで105円で売っていなかったら読まなかったかもしれない。
 親の虐待の話はけっこう色々読んでいるが、自らの話を小説としてこれだけまとまって書ける人もいないだろう。あまりにリアルすぎてどこまで本当なのか疑ってしまうが、先の『ビタミンF』と比べると、テーマが違うとはいえ迫力がありすぎる。
 幼い時に両親が離婚し、継父が娘である主人公を虐待する、というよくある筋で、母親との関係、妹との対比、2人の父親との関わりがよく描写されている。これも『ビタミンF』と比べると、どちらも主人公の視点からの主観的な描写なのだが、重松さんがストーリーを重視しすぎて肝心な部分の"客観性"を失っているように感じられるのに、内田さんの場合はストーリーなど何もないのに必要なことはすべて無駄なく書かれている。これは根本的に立場が違うからだとしか思えない。例外もあるとはいえ、父親と娘では家族を見る目の"深さ"が違うのだ。これは生徒と話していて感じる私の実感でもある。殴る側には殴られる側の気持ちは永遠にわからないとさえ思う。たとえ暴力や虐待がなくても、人間関係の基盤として家庭を絶対に必要とする側と、家庭以外でも人間関係(浮気という意味ではない)をつくって"逃げられる"側では、家庭を見る目は異なって当たり前と言えるだろう。
 主人公は中学生の時恋人とセックスをするが、これも幼い時からの継父からのセクハラの反動ではないかと思える。「彼が私のからだに触れると、養父が触ったときに付いた汚れがとれてきれいになるような気がした(133ページ)」 女の子の性に対する感覚が父親のあり方と大きく関わっていることは疑いようがないだろうが、そのことに言及し分析している意見を私はあまり知らない(あったらぜひ教えてください)。女子中高生の性交経験率の高さを嘆くのであれば、養父実父にかかわらず父親のあり方をもっと追及するべきだと思うのだが……
 物語の中で母親が養父の行為に対して彼女を守りきれないのは、父親の暴力依存に対する共依存とも考えられるが、簡単に言えば経済的な問題以外にない。今の日本で子どもを抱えた母親が経済的に自立できるかどうか、母親個人の能力ややる気だけの問題とは言い切れないだろう。養育費を父親から強制的に取り立てるとか、母子手当を大幅に上げるとか、子ども自身に対して経済的な保証をするとか、そのような措置が多くの子どもを救うのではないか。
 主人公が学校でいい成績をとっていたのは、親の命令や圧力でもあるだろうし、本人が勉強に対して嫌悪感を持っていなかったとも言えるし、もっと勘ぐれば「それだけに集中すれば学校の勉強など簡単だ」ということを証明していると思う。少なくとも高校入試までの勉強ならそんなものだ。優等生とは能力のある子ではなく、環境または偶然によって勉強の楽しさを知っている子、あるいは勉強以外に楽しみが見つからない子なのではないか。逆から見れば、子どもの中に隠れている能力は、学校の成績とは実はあまり関係がないのではないか。そんなことも考える。
 内田さんが16才で家を出、また母親や妹と"断絶"したことを知ると、虐待から抜け出し自らをある程度客観視するためには膨大なエネルギーが必要なのだと思わせる。しかしこのような被害を受けた子どもは、たとえエネルギーがなくてもこの「客観視」の作業をいつかしなければならない。虐待の連鎖を防ぐためには、親の教育とともに被害者の救済をするしかない。現状ではそれらはほとんど本人の自覚に委ねられているが、これは放置に近い状態とも言える。
 いったい、有害な親(の行為)を誰がどう防ぐのか。もっと広げて言えば、子どもにとって有害なオトナの行為をオトナ自身がどう考え対するのか。有害な親によって傷つけられた子どもをどうやって助け加害者の再生産を防ぐのか。子どもの問題は、考えれば考えるほどオトナ自身の問題であり、親とともに教師の責任は重い。「親学」を学校でするべきだという意見もあるが、何をどう教えるのか、今の文科省の授業観でそのようなモラルを教えられるのか、検討しなければならない要素も多いだろう。塾講師にできることは、話を聞くことと児童相談所に通報することくらいしかない。かつて虐待されている子の話を聞いた時、私には通報する勇気がなかった。今度こそは……(2005/1/4)


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