日本の戦争責任 上・下  若槻泰雄 小学館ライブラリー 2000年

   天皇制という日本史上最大のカルト

 インターネットのどこかの掲示板(Yahooだったと思う)で歴史教科書についての議論をしている時に、大阪経済大学の図書館でこの本を見つけた。戦時中の思想統制について調べようと思って読んでみたのだが、それ以上に軍隊や国民や政府に対する天皇制のあり方を深く学ぶことができた。
 日本が中国や朝鮮を侵略しさらにアメリカとまで戦争を起こしたのは、本質的には経済的な動機であって、それがなければ戦争は起こらなかっただろう。しかし経済的な理由だけで国民を戦争に駆り立てることはできない。今のアメリカが「自由と民主主義のため」に戦争をしていると言っているように、当時の日本にも戦争のための大義名分が必要であった。天皇は日本史の中で何回となく「大義名分」として使われているが、これほど組織的・高圧的・徹底的に権威として利用されたことはないと思われる。私も一応そう思っていたが、この本ではそのへんのカルト宗教などまるで問題にならないほどの「超カルト宗教」としての天皇信仰が延々と描かれる;

 陸軍省は、本土決戦を前に1945年4月8日、阿南陸軍大臣の名をもって「決戦訓」というものを全軍に示達した。その第一項は次のとおりである。
  皇軍は神勅を奉戴(ほうたい;つつしんでいただくこと)し、いよいよ聖諭の遵守に邁進すべし。聖諭の遵守は皇国軍人の生命なり。神州不滅の信念に徹し、日夜聖諭を奉誦して、これが服行に精魂を尽すべし、必勝の根基ここに存す。
 神勅とは、古事記や日本書紀の神話に出てくるもので、天皇家の始祖とされる天照大神が、日本は代々自分の子孫が治める国で、それは永遠に続くだろうといったという話である。聖諭というのは、明治天皇が軍人に"賜った""軍人勅諭"のことで、これも日本の軍隊は天皇が統率するのだということを強調したものである。
 敵の日本本土上陸を迎え撃つにあたって、「愛する妻子、両親のために戦え」「その生を育んでくれた祖先伝来の愛する国土を守れ」と奨励するのなら−−だれがしかけた戦争なのか、といった今次大戦の本質論は別にして−−これに感奮興起するものも少なくないだろう。しかし、そうではなくて、"えらい神様"が、「日本は代々自分の子孫が支配する国だといった」と、どこかの成り上がりのオーナー社長の訓辞のような話を奉戴しろというのである。また、その神様の言葉に、「自分の子孫は永遠に栄えるといった、とあるのだから、その神様の言葉を信じておれば、日本は戦争には絶対負けない」というのである。
 こういう、なにかわけのわからない主張を聞いていると、昭和の陸軍軍人のエリートは、幕末の勤王の志士、しかもそのなかでももっとも狂信的な尊王攘夷派と、知能程度は同じか、むしろ劣っていることがわかる。(上巻67−68ページ)

 筆者の直接の体験も含めて、当時の軍首脳の無知無能さがいくつも挙げられており、その原因として上のような「何かわけのわからない主張」があるとしている。西欧に対抗するために必死だった明治時代あたりなら、軍人にしてももっと合理的思考をしていたのではないかと書かれているし、私もそう考える。軍隊の首脳がなぜ・いつからこのような"カルト"状態になっていったのかも、興味深いところである。おそらくこれは知能程度の問題ではなく、どんな知能の者でも「洗脳」されればこのようになることを証明しているのだろうが、それにしてもまるで「天皇教にとりつかれた政治集団が日本を侵略した」ようにも考えられる;

 南京攻略時の第六師団長で『機密日露戦史』という著名な著書もある谷寿夫陸軍中将は、陸大教官のとき、海軍大学校に出講していたが、「陸戦」の講義で次のように述べたという。
  勝ち戦の後や、追撃戦のとき、略奪、強盗、強姦はかえって士気を旺盛にする……。
 講義という公式の場においてこんな発言をするとは、陸軍をおおう国際法無視の雰囲気を示して余りあるものがあろう。(上巻165ページ)
 この戦時国際法の基本的考え方を知れば、日本が戦時国際法を無視し、これに違反した心理的理由がよく理解できるであろう。……日本にしてみれば、大日本帝国は万邦無比−−「万世一系の天皇陛下のしろしめす神国」なのであり、肇国(建国)の精神である「八紘一宇」の国是のために戦っているのであって、「敵と対等なんていう考え方はとんでもない」からである。
 日本の戦時国際法違反の根は深く、日本の国家観−−天皇信仰に基づく確信犯なのだ。ドイツが何十年にもわたり戦争犯罪者を追及してきたのに対し、日本ではみずからの手で一人の戦争犯罪者を罰しようともしなかったのも理由のないことではない。たんに日本人の良心の不足といった段階からきているのではないことを理解しなければなるまい。(上巻168−169ページ)

 豊富な資料と筆者自身の体験を交えながら、なぜ負けるとわかっているアメリカとの戦争に踏み出したのか、なぜ勝ち目のない状況で日本軍は奮闘したのか、そしてなぜ「平気で」残虐行為をしたのか。その決定的な背景として天皇に対する異常な信仰の強制があったことが、様々な事例の中でくり返し強調される。マスコミや学者に対する徹底的な弾圧、「つくる会」教科書では全く触れられない宗教や思想の自由の剥奪、その中で体制に屈しむしろ旗振り役になっていく報道や政治家や学者の言動を見ていると、現在の状況と通じるものが多くて気持ちが悪くなる;

 満州事変勃発に際しては、ほとんどの新聞がこれを非難あるいは批判したが、在郷軍人会の不買運動などの圧力のため、もっとも強硬に反対していた朝日新聞もおよそ1ヵ月後には陸軍に対する攻撃の矛をおさめてしまった。
 しかし全国紙がおとなしくなった後も福井日報はしつように満州事変の批判を続け、憲兵隊から厳重戒告を受けた。満州事変の翌年、5・15事件に際しては、福岡日日新聞編集局菊竹惇は「敢えて国民の覚悟を促す」と題し、「軍隊と軍人は豺狼(さいろう;やま犬とおおかみ)より嫌悪すべき存在なり。国軍自らまず崩壊すべきことは必然である」と論じ、激昂した陸軍軍人や右翼からは脅迫状や電話が殺到し、同社屋上には軍用機が旋回して威嚇した。「陛下の軍隊を侮辱するとは許しがたい」というわけだ。(上巻305−306ページ)


 アメリカのイラク攻撃や自衛隊の「参戦」に対しての現在のマスコミの報道姿勢は、弾圧のひどかった当時よりもなおいくじがないと言えるだろう。アメリカの行為を『侵略』と正しく書いているのが赤旗くらいしか見当たらないというのは、日本人にとって恥辱ではないのか。上の福井日報や福岡日日新聞のような、本当の意味での「国を愛する」報道がないとしたら、報道機関の学力低下または勇気のなさこそ問題にされるべきだ。
 下巻では教育や言論弾圧を用いた国民への洗脳、そしてカルトをあおり立てる知識人や政治家の愚かしい言動が延々と引用される。「愚かしい」というのは私の感想ではなく、筆者の実感である。

 ……長々と戦時中の言論を引用してきたが、いま、彼らの著書を読み直しながら、こんな文章をシラフで書いた学者、論壇人とはいったいなんなのだろうかと、真剣に考えざるをえない。同じ表現を使うが、ここに書かれたことは、まさしく"狂人のたわごと"としかいいようはないのである。
 人間はどこまでばかになれるものなのか、その地位と収入のために、人はどこまでおろかに、そして卑劣になれるのかと思うとおそろしくなる。日本人であることがいやになってくる。
 ……しかも彼らは戦後、彼らの戦時中の言論に対しなんらかの形でみずから責任をとった者が何人いたのか。彼らのほとんど全員は平然として口をぬぐい、平和を唱え、民主主義を謳歌してきた輩ばかりではないか。(下巻232−233ページ)


 戦時中の言論弾圧は私も一応知っていたが、戦時中の知識人の多くが戦後も"活躍"していることは知らなかった。戦時中にカルト宗教に便乗して若者に死ぬことを推奨しながら、終戦後自己批判も辞職もせず教職にとどまり続けている大学人がいるとは、さすがに思わなかった。このように自らの責任を問わずにすむことそのものが、天皇崇拝が真の宗教ではなく政治に利用された「カルト」であることを証明している。天皇制は無責任の体系である、と言ったのは丸山眞男氏であるが、このような知識人はどれほどの業績を上げていても蔑まれるしかないだろう。
 筆者はソ連による日本人などのシベリア抑留をくり返し非難しているように、共産主義を支持しているわけでもなく、いわゆるリベラリストである。そのような筆者がここまで言い切るのは、あの戦争当時の日本が、経済的には資本主義であったにしても、思想的には自由主義ではなく完全にカルト宗教に侵されていたということであろう。このような洗脳から脱するためには徹底的な「脱洗脳」が必要だと考えられるが、日本ではそのような作業は行われなかった。形式が変わっても現在まで天皇崇拝が残っているのは、「脱洗脳」がなされなかった証拠の1つである。

 ……それ以来私は、地球のうじ虫の一つである皇室に敬意を表するあらゆる言動を、確信をもってすべてやめた。ただし、軍隊にいたときは例外である。袋叩きにあい、あるいは陸軍刑務所にいれられるおそれのあることをあえてするほど、残念ながら、私には勇気がなかったのだ。そして、兵役拒否者、天皇制否定論者がこの世に存在し、牢獄につながれているなどということはまったく知らなかったのである。(下巻245ページ)

 幸いにして天皇制カルトの洗脳から抜け出せた人間から見れば、皇室が「うじ虫」(私にはさすがにここまでは書けません)であり敬意を表する価値などないことは自明である。このような歴史を無視して君が代だの日の丸だの教育勅語だのを強制する人間は、カルトの復活を手助けしている以外の何者でもない。「兵役拒否者、天皇制否定論者がこの世に存在し、牢獄につながれている」ことを教えない歴史教科書も「洗脳」されている。そして上に書かれている通り、軍隊は言論や思想の自由を圧殺する組織である。当時の日本軍が極端であったことも事実だが、そもそも暴力を目的とする軍隊が思想や言論の自由を尊重すると考える方がおめでたいのであって、人殺しのために全力をあげるべき組織の中で「それでいいのか?」という発言や考え方が許されるはずがない。筆者は非常に穏やかに自己批判しているが、筆者自身が戦争に協力したことへの検討は見られない。軍隊という暴力機関を容認する思想も戦争の大きな原因であって、戦争責任を問うのにこの点を不問に付すのは少し物足りない。
 筆者の結論は当然のように、天皇制廃止に行き着く;

 しばしば述べたように、日本のようにタブーのある国が、あるいは特権階級のある国が、民主主義国などと称するのは、言論、思想の自由の存在しない中国そして北朝鮮が、"人民民主主義国"と名乗るのと同様こっけいであろう。
 ……天皇制廃止とともに、同一選挙区からの世襲代議士の立候補の禁止、公的団体はもとより、私的事業でも公的な存在といえるほどの規模に拡大した企業の役員の世襲も制限されねばならない。その他、日本のあらゆる部面に残っている封建的なものを、天皇制の廃止とともに徹底的に一掃し、機会均等を常に確保し再生産する社会を実現したならば、天皇制廃止は生々たる新日本の新しき門出となるであろう。
 ……日本にわけのわからぬ新興宗教がはびこるという社会現象も、天皇制を存続させている国民の文明程度からきているものと思われる。というのは、生きている普通の人間を、"尊い"とか"特別の存在"と考える民衆は、新興宗教の教祖にとっては最上の土壌だからだ。
 天皇制が廃止された日こそ、日本にはじめて真の自由とデモクラシーが訪れ、合理的精神が日本国民の中に確立するときなのである。(下巻264−267ページ)

 酋長がいなければ部族が崩壊する危険があるのは確かであろうが、天皇制がなければ日本民族は統合できないほど、日本人は未開野蛮の国民なのであろうか。ほかの国が皇帝なしでやっているのに、それができないというほど、日本を決定的な後進国と自認するのであろうか。(下巻270ページ)


 私にはよう書けないほど激しい文章であり、すべての原因を天皇制に求めすぎているようにも思えるが、これがあの時代を過ごした人間の率直な思いなのであろう。問題なのは戦争責任だけではなく、現在に至るまでの日本人の無責任体質を天皇制が支え続けていることである。自分の行動に責任を持たず、天皇とか国(と言われているもの)に寄りかかり、逆に天皇も相手に寄りかかって責任を負わない。お互いに責任をなすりつけてなかったことにしてしまう。丸山氏の言う「無責任の体系」が、筆者の主張によってよりわかりやすく説明されている。
 日本人が天皇の責任を問えないのは、宗教的な理由だけではなく、天皇の責任を明確にすることで自らの行動の責任も問われるからではないか。従軍慰安婦について天皇の責任を問うた女性国際戦犯法廷の番組が、NHK自身によって不当に編集されたり、自民党の反日議員や産経新聞や読売新聞が番組内容を執拗に批判するのは、天皇の戦争責任を問われることによって、戦争を肯定している自らの責任まで問われるのを恐れているからではないのか。

 天皇制廃止は、日本の侵略被害国に対し、真に謝罪したことを意味するのであり、戦争の責任をとったということになるのである。微々たる補償金などとは次元の異なる根本的問題なのだ。それによって日本ははじめて国際社会で名誉ある地位を占めることができるであろう。
 もし今の天皇が賢明であるのなら、みずから天皇制の廃止を主導して、おそまきながら天皇制の掉尾を飾るべきであるし、"忠節の臣"とかいう者が天皇の側近くに存在するのなら、自己の失職をおそれることなく、毎日のように天皇にそれを進言すべきであろう。いやしくも日本国のこと、日本民族の将来を思う者は、声を大にして天皇制の廃止を叫ばなければならないはずのものである。(下巻279−280ページ)

 数千万人の人間を苦しめ続けた昭和天皇は、論理的に考えれば少なくとも退位するべきだったし、さらに倫理的に考えれば自害するしかなかった(昭和天皇が生き続けていられるのならば、日本のすべての死刑囚も無罪になるべきであろう)とも言えるが、そのような人間を最後まであがめ続け責任を問わなかった日本人が少年犯罪やら子ども殺しやらで騒ぐのは、客観的に見ると不思議だ。
 東京裁判を「勝者の裁判で不公平だ」と批判するならなおさら、これ以上の無責任な殺人を防ぐためにも、今からでも日本人自身が天皇を裁くべきだ。筆者の最後の主張の中で、天皇制の廃止について天皇自身の意志を求めているのは、まちがっていると思う。まがりなりにも国民主権なのだ。天皇制の将来を天皇個人に委ねるのはまさしく無責任である。日本を本気で愛するのであれば、憲法を改正して天皇制を廃止する運動を起こすべきだし、私もここでそう主張したい。どうしても天皇を残したいのなら「民営化」し、天皇崇拝が宗教の1つであることをはっきりさせるべきだ。ついでに国歌や国旗に対する敬意などという「宗教的行為」も公共の場で禁止するべきだろう。(国歌や国旗に対する敬意が国際常識だと言う人もいるが、仮にそうであってもそれが思想の自由に反することには変わりがなく、憲法違反である。外国では外国のルールに従えばよいので、日本のような文明国でそのような野蛮な人権無視のルールを奉る必要はない。)
 青春時代を戦争の中で過ごした人間の、実感のこもった証言として、この本は非常に貴重なものである。古い資料が多く引用されているが読みにくくもない。若い人にぜひ読んでもらいたい。(2005/2/16)


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