夕凪の街 桜の国  こうの史代 双葉社 2004年

   ヒロシマはどこにあるか

 原爆と言えば峠三吉さんの詩とか『はだしのゲン』あたりが有名だろうが、私には同じ中沢啓治さんの『黒い雨に打たれて』や被爆二世のことを書いた『ぼく生きたかった』(名越謙蔵・操共著、労働教育センター)が印象的だ。大学に入ってすぐ、学生運動のサークルで誘われて見た原爆映画の迫力にも圧倒された。映画を一緒に見た友人はそのサークルに入り、理学部から「転向」して今は弁護士をやっている。コトパンジャンダム訴訟など、なかなかいい仕事をしている。物理学オタクだった彼の運命を変えたのは、何の気なしに見たあの映画(タイトルを忘れた)だったのだろうか。
 こうのさんは広島出身だが被爆者でも被爆二世でもなく、原爆の物語をかくにはずいぶん悩んだようだ。中沢さんのような直接体験者の表現、あるいは映画による記録と比べて、原爆を直接知らない人間がそれをどう描くかは、いかに広島出身者であっても大きい問題であろう。彼女も当然それを意識しているが、
 東京に来て暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨禍について本当に知らないのだと言うことにも、だんだん気付いていました。わたしと違って彼らは、知ろうとしないのではなく、知りたくてもその機会に恵まれないだけなのでした。だから、世界で唯一(数少ない、と直すべきですね「劣化ウラン弾」を含めて)の被爆国と言われて平和を享受する後ろめたさは、わたしが広島人として感じていた不自然さより、もっと強いのではないかと思いました。遠慮している場合ではない、原爆も戦争も経験しなくとも、それぞれの土地のそれぞれの時代の言葉で、平和について考え、伝えてゆかねばならない筈でした。まんがを描く手が、わたしにそれを教え、勇気を与えてくれました。(あとがきより)
 このあとがきに込められた思いは、現在の日本の状況においてとても貴重だと思う。
 まったく定規を使わない独特のタッチでかかれたこの作品は2つに分かれているが、1つの家族の歴史を描いている。被爆して亡くなった家族を思いながら、自分が「生き残って」しまったことを肯定できずに苦しむ女性。やっと恋する自分を認めて幸福になろうとしたのに、原爆症で亡くなってしまう彼女の描写は淡々としてしかし生々しい。疎開していたために被爆を逃れた彼女の弟が被爆者と結婚し、生まれた子どもたちの被爆二世としての葛藤とその"解決"。
 生まれる前 そう あの時 わたしは ふたりを見ていた
 そして確かに このふたりを選んで 生まれてこようと 決めたのだ(93−95ページ)

 少し古めかしい絵柄で流れるこのくだりは非常に美しい。ここで描かれている主題は原爆による直接被害ではなく、この国の中での被爆者という存在とどう向き合うか、被爆二世である意味をどう受け止めるかということだ。それは現在も存在する被爆者に対する差別の象徴でもあって、私たちももちろん無関係ではない。原爆の被害を、歴史や記憶ではなく現在までの人間の生きざまとして描くのは、まさしく原爆を直接知らない人間にとっての「直接体験」であり、こうのさんのたどりついたこのストーリーは正解だと思う。
 広島で生き残った自分の生きている意味を問い続けるというのは、今ではあまりはやらないような倫理的問題である。実際に生き抜いてきた人たちにこのような感覚がどのくらいあるのだろうか。震災や津波で家族を亡くした人は「自分だけ生き残ってしまってよかったのか?」という問いかけを持つのだろうか。こうのさんはもちろん取材をしてかいておられるのだろうが、私の想像力はこの心理に届ききらない。世界でたくさんの人が飢餓や病気で亡くなっている時に、私たち大半の日本人が「生き残ってしまっている」ことの意味も問われなければならないだろうが、まさかそういうことまで拡げて描こうとしているわけではないだろう。
 連れ合いは「さびしそうな絵だね」と言っていたが、物語のラストは希望を抱かせるものである。被爆者や被爆二世の方にとって、この作品は大きな勇気づけになるかもしれない。しかし差別する側としての私たち、核兵器を許し続けている側としての私たちにとっては、このマンガはどんなに美しくても勇気づけではなく「警告」である。美しいからといってそこで終わらせてはいけない。そういう意味では実は非常に難解な作品であって、もしかしたらこうのさん自身もまだ最後の結論を探しているのではないか、とさえ思う。文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞した作品だが、ここで完結してほしくないしするべきでもない。この物語の続きは、ヒロシマやナガサキを本当に知らない私たちがつくるべきなのだ。(2005/1/12)

 こちらの書評もお読みください http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yuunagi.html

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