野蛮なクルマ社会  杉田聡 北斗出版 1993年

   自動車とドラッグのどちらが有害か

 私の実母は自動車を運転していて事故で亡くなった。事故が起こったのはやや見通しの悪いY字路で、トラックとぶつかってほとんど即死だったらしい。随分前のことで誰も事故の話に触れたがらず、結局事故の原因が何なのか私は知らないが、子どもの頃 そのY字路を通る度になにか不思議な感じがした。
 母はドライブが好きで、幼かった私を乗せて名古屋から神戸あたりまで飛ばしたこともあった。夜中にぐずつく私を寝つかせるために、車に乗せて走っていたこともあったらしい。彼女にとってクルマは必需品だったし、私にとっても自動車のおかげで助かったことがあった。しかし母が自動車のせいで死んだことも事実である。
 大学生になって友人が免許を取りに行くとかいう話を聞いたとき、少し考えた。自分が自動車によって殺される可能性はなくすことができない。しかし自動車で誰かを殺す可能性をなくすことはできる。母を亡くした自分のような人間をつくり出すことだけはいやだ。車に乗らないことで不便になるとしたら、その不便を我慢することが自分にできることだ。……そう考えて免許を持たないことにした。これは論理というより私怨であるが、特にまちがっているとは思わない。
 この本はそのような私怨ではなく、論理や倫理としての「反自動車論」である。毎年1万人近くの人間が自動車のために亡くなり、その数倍の人間がケガで苦しんでいる。さらに自動車によって子どもの遊び空間が奪われ、子ども社会の崩壊の大きな原因となっている。北朝鮮の拉致を糾弾している人間は、その数百数千倍の被害をもたらしているこの現実をなぜ見過ごしているのか。同じ日本人だから仕方ないのか?

 もし、「現代における最大の怪奇」は何かと問われたなら、私はためらわずに、現在成立している自動車の社会システムの異常さを筆頭にあげるだろう。
 今日、自動車の私的な所有と使用とが、ほとんど無条件で許されている。一般に私的使用の一定の条件づけと見なされる免許制度も、しょせんはただの通過儀礼であるにすぎない。……そのために運転者は今日、基本的にすべて素人であり、まただからこそ運転者の運転の管理、特に専門的管理者による管理などは絶無なのである。しかし自動車は、機械システムとして見れば、レールをもたないきわめて不安定な道具である。状況の変化に対し、運転者みずからが逐一対処せねばならぬだけに、自動車は、予想した軌道をたやすくはずれる道具なのである。
 ……とすれば、自動車使用は本来(列車の場合と同様に)厳重に隔離され管理された空間においてのみ、許されるべきものではないか。だが今日、その使用は「歩道」上を別とすれば−−いな、歩道ですら十分に別であると言えるかどうかは疑問である−−何ら制限されていないのである。(9−10ページ)


 福岡で驚いたことの1つは、自動車が歩道に平気で乗り入れてくることである。市街の中心部は歩道の幅が広く、自動車はどんどん歩道に乗り入れて駐車している。車道に違法駐車するよりマシということなのだろうか。歩いている側からすれば、多少渋滞しようが車道に停めてもらった方がマシなのだが、自動車を運転している側からすると、歩道に入ってくる自動車の恐ろしさはわからない(想像できない)のだろう。こんな歩道では、目が不自由な人はこわくてとても歩けまい。この無神経さが"当然"であると思えてしまうこと自体が、自動車のおそろしい「中毒性」であろう。

 ……私はこれまであまり明確に述べずに来たが、加害者は実は自動車ではなく、結局のところ、分別もあり良識もあるはずの、そして子どもを保護すべき責務を負う大人であり、一方被害者は、本来大人によって、何重にも保護されるべき、いたいけな、か弱き子どもたちなのである。
 私は夢想する。もしこうして子どもを殺し傷つけるのが、例えば野犬だったらどうであろうか、と。その時、疑いもなく大人たちは、大挙してその駆除に乗り出すだろうと私は確信する。仮に野犬の存在に絶大な経済効果があろうとも、大人は少しもちゅうちょしないだろう。だがその野犬が自動車であり、そしてその毛皮をかぶるものが自分たち大人であれば、大人たちはいささかもこの事態を問題にしようなどとは考えないのである。(28−29ページ)


 現在ならばここで言う"野犬"は「子どもを襲う犯罪者」などと言い換えることもできるだろう。犯罪者を憎む発言を繰り返す大人が、自動車を平気で乗り回しているのは、私から見ても不思議だ。子どもがおかしくなっているのは、このような大人のエゴを見せつけられ続けているからではないだろうか。
 自動車の害はもちろん事故だけではない。排気ガス、騒音・振動、泥はねやホコリ、遊び場の剥奪、子どもやお年寄りへの脅威、公共輸送機関の衰退、スパイクタイヤによるアスファルト粉塵、犯罪への利用、エネルギーや空間の浪費、自動車製造工場での非人間的な労働、廃車によるゴミ公害、アスファルト舗装による自然破壊や子どもの遊びの妨害などなどなど、具体的で想像が難しくない様々な自動車による害が挙げられている。最後に挙げられているのは「道徳の退廃」;

 そして、自動車に関して何より問題なのは、自動車による人間の変貌であろう。
 これまで述べたようなおびただしい種類の害悪にもかかわらず、人は自動車によって自己の私的利益を追求し、それによって顕著な利己心の肥大化、非人間的傾向の拡大を経験するであろう。これまで論及した諸問題の背後にあって、これらの問題を問題として成立させることを不可能にしたものこそ、まさに拡大し、肥大化させられたこの人間の利己心なのである。利己心が肥大化したとき、やさしさ、思いやり、あわれみ、いたわり等々といった真に人間的な感情を人は遺憾なく喪失するであろう。だからこそ、大人によって汚された大気によって子どもがゼン息等の死の苦しみを味わったとしても、それどころか大人が子どもを大規模に殺傷するという野蛮すらもたらしたとしても、人が自動車利用者であるかぎり、彼はそこに何らの非道徳性も見ることができなくなるのである。(50−51ページ)


 私は自動車を運転したことがないのでこの感覚はわからないが、たとえば自転車に乗っているときに、歩いている人の感覚が想像できなくなるのに似ているのではないかと思う。自転車も人を傷つける可能性はもちろんある。その覚悟を持って乗らなければならないと思う。しかし自動車に乗っている人の多くが「殺すかもしれない、殺すかも……」などと思って運転しているようには思えない。何の気なしにスピード違反する知人、少しだからといって飲酒運転する友人を見たとき、それが人間の命に関わるのだという自覚は感じられなかった。もし殺したら傷つけたらどうなるのかということについて、真剣に考えていないのではないかと思う。保険とかいう問題ではない。お金で命や体は償えない。むしろ保険などやめて、自らの命で償うことにした方が、覚悟を持って運転できるかもしれない。
 安全のためにシートベルトなどと言うが、本気で事故を防ぎたいのならシートベルトなどはずして「命がけ」であることを自覚した方がよい。外を歩いている人間にはエアバッグもシートベルトもないのだ。加害者になりかねない側の安全性だけを追求するのは、不公平だ。運動エネルギーの公式を用いて計算すれば、乗用車が外の人間と接触しても危害を加えないスピードは、時速91mである。このスピードならエアバッグもシートベルトも必要ないだろう。この「安全速度」の数百倍で走っておいて自分だけ安全でいようとするのは、自分勝手すぎないか。
 このような論は、まちがいではないとしても極端かもしれない。より現実的な方法として、走行速度の徹底、自動車の生産を抑制するような政策をとること、横断歩道ではなく横断車道(車道の方が段差になる)をつくること、裏道などで通行制限を厳しくすること、ジグザグ路やハンプ(道路に盛り上がりをつくる)などによるスピード制限など、外国の例も紹介しながら有効な対策を多く挙げている。それらは十分実現可能である。自動車運転の制限は、運転者にとってなにがしか不便であろうが、それが多くの人間の安全につながることを納得し理解し不便を我慢することこそ、この国を愛する証の1つであろう。資源が有限であり「ゼイタクが敵」になる時代がいつか来ることを考えれば、このような我慢に慣れることは、日本だけでなく地球全体のために必要なことだろう。
 私にとっては私的な問題だった「自動車」は、筆者の論によって「ドラッグより危険なもの」として客観視されている。その通りだ。私も自動車を利用することがあるが、その危険をどう背負えばよいのか正直わからない。せめて私自身が運転することを避け、教え子にこのことを伝えたい。そのためにはこの本はまたとない教科書である。特に若い人に一読を勧めたい。(2005/4/13)


読書ノート一覧に戻る

最初に戻る

inserted by FC2 system