何様のつもり  ナンシー関 角川文庫 1997年

   毒舌の存在価値

 関西のテレビによく出てくるやしきたかじんは毒舌が売りで、私も時々よく見ていた(最近つまらないのであまり見ない)が、なんでこういう毒舌が面白いのか自分でもわからない。人の悪口を聞いて喜ぶのは人間が小さい証拠なんかな。それとも、自分では言えないことを代弁してくれているから気持ちがいいのだろうか。
 ナンシーさんは主にテレビ番組の評論を多く書いていたが、数年前に急死してちょっとしたニュースになった。当時から読んでいたので私も驚いたが、どうもかなり不健康な生活をしていたらしい。自殺のようにも思えた。このタイプの評論家は他にいないので非常に惜しい、という文章をどこかで読んだ。最近で言えば(よく知らないのだが)細木数子さんのようなものか?

 私は人一倍よくテレビを見るが、ドラマはほとんど見ない。現在も、毎週ちゃんと見ているドラマは1本もない。……私は言い切るが、今のドラマはおもしろくない。……一切ドラマを見ない私だが、無根拠にこんなことを言っているのではない。昨年大当たりした「101回目のプロポーズ」を、夕方の再放送で全回見た。「あのシーンでは泣いた」とか「あのドラマで武田鉄矢が好きになった」とまで言わせたドラマである。だけど、おもしろくないじゃないか。あれ、武田鉄矢そのままではないのか。主人公の男の、はた迷惑な前向きさ、暑苦しい善意、といった過剰な日常生活は武田鉄矢そのものでしかなく、それがまがりなりにもドラマとして成立し得たのは浅野温子の演じたヒロインが情緒不安定だったからだけだ。……武田鉄矢に限らず、ドラマの中にそのままいる役者というのが、最近多い。"自然体"と言い換えれば、"大物"みたいな感じもするが、もちろんそんないいもんじゃない。たとえば「得体の知れない謎の美女」→森尾由美じゃあ、それは「力不足」ってやつである。それは森尾由美のタレントとしての格をドラマの中に見せてしまっているからであり、最近のドラマはあっちを見てもこっちを見ても「力不足」だらけだ。(57−59ページ)

 一昔前に比べて視聴率が落ちていることからも、ドラマを見ない人が増えているのは間違いないだろう。私もテレビはよく見るが、日本のドラマはほとんど見ない。このコラムはずいぶん前に書かれたものだが、今の情況を予言しているようだ。ドラマが面白くない原因はいくつかあるだろうが、簡単に言えばお金をケチっているからだと思う。俳優を育てるためのお金をケチっていることが、上に書かれているような「ドラマの中にそのままいる役者」を使わざるを得ない情況をつくっているのではないか。脚本も演出も然り。だから役者本人に責任があるとはあまり思わないが、関さんの見方は厳しい、というよりきつい。

 冷静に考えてみてほしい。我々がいままで武田鉄矢を嫌いだったのは、彼の芸うんぬんではなく、生まれながらの武田鉄矢の本質がその理由だったはずだ。海援隊時代やソロになってからのヒット曲、そしてかつての代表作『金八先生』も、仕事としてはきちんと認めて評価してきた。そして、「それは認めるけど、でも武田鉄矢はちょっと……」という姿勢を取り続けてきたのではなかったのか。(96−97ページ)

 この書き方だと名誉毀損ではないかとも思うが、言いたいことは何となく伝わる。「生まれながらの武田鉄矢の本質」がどうこうというのは全く共感できないし、「我々」という書き方を使うのは卑怯に見える。しかし役者を志していたとは思えない、訓練を十分積んできたとも思えない武田鉄矢氏が、ドラマの人気や視聴率によって役者として評価されることには私も納得できない。だから『101回目のプロポーズ』についての上のコメントには共感できる。武田鉄矢氏の人間としての魅力がドラマに反映されることはあるだろう。しかし彼が役者としてプロとは言えない以上、それは偶然の産物であって、だからドラマを全体としてみればあたりとハズレの繰り返しになり、見ていて疲れる。それが「ドラマの中にそのままいる」役者の致命的な欠点だろう。そのような人が多いことに対して、関さんは

 世間的な共通概念みたいなものに、納得いかないケースが多いんですよ。なんでこの人を、こういうふうに世の中は流通させているんだろうって。それが単純に不思議で。ほとんどの場合は、すごく嫌な感じがする。要するに、お金が動くっていう理屈しか思い浮かばないケースだから。(193−194ページ、竹中直人氏との対談より)

 と書いている。これは世間的な共通概念というよりも、マスコミがあたかも共通概念であるかのように流し押しつけている情報というべきものである。人気者は実力があるから人気があるというよりも、人気者を必要とするテレビ局の情報操作によってつくられていると思う。テレビは視聴者のために番組をつくるのではなく、視聴者を利用して利益を得るために番組をつくっている(本質的にはNHKも同じ)のだから、自分に都合のいい情報を「世間的な共通概念」にすることができるなら、おそらく必ずそうするだろう。たかがドラマに目くじらを立てる話でもないのだろうが、本質的には関さんの言っていることはテレビ会社のあり方の問題であって、俳優を責めても始まらないだろう。そうすると彼女の書いていることは、本質から目をそらし鬱憤を晴らすガス抜きの役割を果たしているだけなのだろうか。
 関さんの文章は随分きついが、彼女と共通した感覚でテレビを見ている人は少なくないと思う。ドラマの視聴率が落ち続けていることも、彼女の本が売れ続けていることも、そのことを証明している。彼女の文章がガス抜きでしかなかったとしても、読者は(その気があれば)そこから出発してマスコミを見る目を養うことができる。あるいは彼女がただ主観的にテレビ番組やそこに出る人々を批評していただけだったとしても、そこから建設的な何かの結論を得ることはできる。それは彼女が「我々」に寄りかかりながらも、自分の立場にこだわり自分の言葉で語ろうとしているからだと思う。
 毒舌に存在価値があるとしたら、まちがっていることをまちがっていると言えるときだけだ。彼女の考えは私とは合わないが、正統な「毒舌」の1つとしての存在価値は認めたい。(2005/7/25)


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