「ビミョーな未来」をどう生きるか
   藤原和博 ちくまプリマー新書 2006年

   働く喜びは伝えられないのか

 福岡にはグリーンコープという生協があって、個別注文のカタログが毎週届く。普段はほとんど見ないのだが、たまたまそのカタログを見ていたときにこの本の紹介があって、興味が湧いたので注文してみた。
 筆者はリクルートの新規事業部長などを歴任しフェローになる一方、民間人初の公立中学校長になり、「よのなか科」をつくったり「食育」を提唱して話題になった人である。この本は、筆者が校長特別授業でよく題材にする内容をまとめたものである。「中学生以上の生徒たちと、そうした子を持つ親の世代が、未来につながった今をともに語れる材料として、中学校での授業のつもりで、改めて語り起こしました」(14ページ)とある。
 「よのなか科」の本は以前立ち読みしたことがあるが、あまり興味が湧かなかった。何か自分の思うものと違う、理由のわからない違和感のようなものがあった。

 その前に、一つ、考えておきたいことがあります。
 なんで、僕たちは仕事をしなきゃならないんだろうということ。
 「だって、お金を稼がなきゃ食っていけないジャン」って答える君は、なかなか頼もしいやつだ。
 それは片方の真実でも、もう一つ、その裏側にある真実にも目を向けて欲しいんだなあ。
 それはねえ、仕事をすることで、君たちが「この世の中に生きた証」を残せるということ。難しい言葉を敢えて使えば、「人生の痕跡」を残すため。
 人間は、生まれて、食べて、排泄しながら成長するけれど、その後はだんだん衰えながら死んでいく動物だ。でも、動物の中で人間だけが「脳」を発達させ、手や足を道具に物作りを始めた。道具の延長上に機械を発明し、自然現象のルールを発見したり、社会を形成して一人ではできないことを可能にした。それを文化、文明にまで高めたわけだ。
 君も、世の中に関わって、その一部を変えることができるということ。
 仕事は「自分の人生をどう世の中に刻み込むか」の手段になるということ。
 これだけは、忘れないでください。
 生きて、赤ちゃんのうちに人知れず死んでいく人生もある。
 生まれながらの病気と闘う人生や、事故であっという間に奪われる人生も。
 だから、「フツー」とか「まあまあ」とか「べつに」とか言っているビミョーな君の人生は、それだけで超ラッキー。けっしてドラマチックではないフツーの生活を営む君を、僕は応援したいと思います。(28−29ページ)


 『これだけは、忘れないでください』の「これ」が何なのか、私の読解力ではどうもはっきりしないのだが、そのような些細な読みにくさはおくとしても、何かひっかかるものがある。
 仕事が金儲けのためだけのものでないことには、私も同意する。仕事をすることで「この世の中に生きた証」を残せる人もたくさんいるだろう。それが悪いとは思わない。しかし、生きることにそもそもそのような証は必要なのだろうか。痕跡を残すことがそれほど大切なことだろうか。
 赤ちゃんのうちに死んでいく者、生まれながらの病気で一生働けずに暮らす者は、仕事をできない故に、この世の中に生きた証を残せないのだろうか。もっと広げて言えば、この世の中に生きた証を作るためには、働くことがそんなによい方法なのだろうか。
 私はそうは思わない。一生働けなくても、否働かなくても、他人に見えるような生きた証を残せなくても、文化や文明に何も貢献しなくても、人間の関わりの中で幸せを産み出せる人はたくさんいる。そのような幸せまでを「この世の中に生きた証」と解釈するのなら私も異論はないが、どうもこの文章をそのように読むのはムリがあるように思える。
 もう1つひっかかるのは、子どもの言う「フツー」「まあまあ」「べつに」などの言葉を、筆者はどのようにとっているのかということだ。子どもが「フツー」と言うとき、子どもがどのような意味で言っているのか、筆者はどのくらい考えたことがあるのだろうか。他に表現を知らないからごまかしでそのような言葉を使っているのか、実はまったくフツーではない状態を悟られないためにそう言っているのか、大人に対してまともに会話をしたくないから適当に流してしまっているのか、他人と大差がないからとりあえず安心という意味でそう言っているのか、分析したことがあるだろうか。真面目に教師をやっていれば、子どもが言葉通りの感情を持っていないことがしばしばあることくらいわかるだろうが、彼は「フツー」と言っている中学生に対して何を感じているだろうか。本当にその子たちが「超ラッキー」だと言い切れるのだろうか。
 私の偏見かもしれないが、どうも筆者は「仕事をする人間」の側から子どもを見ているように思える。大人として仕事をする視点、その予備軍としての子どもを見る視点を強く感じる。子どもの将来の仕事をナビゲートすることは重要ではあろうが、今ここにいる子どもがどう生きていて、その子どもとどう関わるかという問題意識がないように感じる。もちろんこの本だけで筆者の仕事ぶりを判断することはできないが、子どもの将来や仕事について語りかけるにしても、もう少し子ども自身の「今」と結びつけて話した方が説得力があると思うのだが、どうなのだろうか。

 学校には、ウンザリするほど「ルール」があるでしょう。
 なぜ、こんなに「ルール」があるんだろう。(中略)僕なら、こう説明したいと思う。
 「君たちがいままでやってきたテレビゲームにも、遊びにも、すべてルールがあったはず。ルールを守れないヤツが遊びに入ってくると、とたんにシラケちゃうよね。ゲームも遊びも、ルールを破ると面白くなくなっちゃう。だから、ルールを守りながら、できるだけ自由にやる技術がだいじなんだ」と。
 学校の規則の他にも、君たちが生きるうえで、守ったほうがいい「生活習慣」があります。
 「早寝早起き」「朝食をしっかり食べる」「毎日自宅学習をする」「テレビを長時間見ない」「適度な運動を欠かさない」……など。(中略)
 それはなぜかというと、二つの理由があるように思う。
 一つは「生活習慣」にしっかりとしたリズムがあると、健康が保たれエネルギーが出せるから、いい仕事ができる。自分の仕事に納得感が得られるだけでなく、他人の評価も高まるでしょ。だから、物理的にエネルギー満タンでいい仕事ができると、周囲からの「信頼と共感」が得られるということ。
 もう一つはイメージの問題。君は将来、だらしない人に仕事を頼もうとするだろうか。宿題を期日までにやり遂げる人は、クルマのセールスマンになっても納車(新車を家に届けてくれる)日を守ってくれそうだよね。
 「朝、決まった時間までに学校に登校する」とか「必ず掃除を欠かさない」という行動は、じつは学校の中でだけ通用するものなのではなくて、社会から大人としての信任を得るのに必要のに必要な行動なんだね。君だって、将来、国の政策決定を代表する議員を選ぶ選挙に投票するとき、いつも国会に遅刻したり、議会に来ても居眠りばかりしているヤツには投票したくないだろ。
 つまり、規則正しい行動は「信任」のベースになるということ。(中略)……
 周囲からの「信頼と共感」とか、大人としての「信任」といっているものを総称して、僕は「クレジット」と名付けているんだ。
 「クレジット」が高まれば、君の自由度が上がる。「クレジット」が低くなっちゃうと、君の自由度は下がる。つまり、不自由になっちゃうってこと。(36−38ページ)


 長い引用になってしまったが、私にはやはり納得しきれない部分があちこちに残る。生活習慣を守るのは、本当にイメージの問題なのか。他人からの信任を得るためのものなのか。宿題を期日までにやり遂げることと、クルマの納車を期日までにすることは、そんなにすぐにつながることだろうか。率直に言えば、考え方が単純すぎないか。
 学校のルールは、本質的には他人のためか自分のためかのどちらかしかない。人を殴らないというのは他人に迷惑をかけないルールであり、宿題をするというのは自分のためのルールである。自分のためのルールには、それが自分のためであるということを最低限納得する必要がある。なぜ宿題をするのかと問われたら、私なら「自分を賢くするためでしょ?」と問い返す。そこで子どもが「宿題をしても賢くならない」と言ったら、それは宿題を出す教師の説明不足か、宿題そのものの設定ミスか、あるいは教師と生徒との信頼関係の欠如であって、そこで対話をする必要がある。面倒な作業だが、突きつめて言えばここまでやらないと宿題の効果がない。そこで「将来信任を得るため」とか「周囲からの信頼と共感」とか言われても、子どもはおそらく納得できないだろう。
 筆者はリクルートで長い間働いていて、ビジネスに対する感覚は非常に鋭いのだと思う。仕事で要求される能力と学校の科目との関連とか、集中力の重要さとか、ハローワークマップ(後述)の話などは興味深い(購入して塾の自習室に貼っている)。現在の大人の世界の仕事の感覚、そこで評価される人間のあり方、そのような人間になるために子どもに要求されること、については非常にわかりやすく描かれている。
 しかし私の感覚で言えば、働くことを経済的理由以外に求めるなら「誰かの役に立つことがうれしい」からだ。看護師や教師や理学療法士をめざす子どもが多いのも、誰かの役に立つことによって直接感謝されるこのような仕事に憧れるからだ。もちろんお金持ちになりたいという子もいるし、それ以外の方向に仕事を求める子もいる。要するに働く理由は多様なので、筆者の意見がまちがっているわけではないが、それを特別なものとして子どもに訴える意味もない。あるとしたら、筆者自身の生きざまの中で子どもに感じさせるしかないだろう。
 もっと言えば、今の世の中のお金のまわり方に対して「それでいいのか?」という視点を持つことだって必要だろう。教師が何も教えなくても、子どもは能力や労働量や努力が給与に比例しない不条理がたくさんあることを知っている。現状を頭から肯定して、その中でどう生きていくかを説くことには、私は賛成しかねる。別に革命を勧めようというわけではない。世の中と関わることの意味を、より広い意味で考えさせるべきだと思うのだ。
 おそらく必要なのは、筆者や私の考えを押しつけるのではなく、働くことへの様々な意味づけ、人によって異なる多様な考え方を教えることだ。子どもは親を中心とした少数のオトナの影響を強く受けるが、学校に要求されるのは子ども自身が選択しうるような多様な「影響力」を用意することだと思う。そのような意味で言えば、筆者の論旨がいいか悪いかということよりも、論旨自体を押しつけるようなスタンスで子どもに対して構えることに不安を感じる。多くの教師の中のひとりとして語るのなら問題はないが、校長がこのような構え方で子どもに訴えることがどのような意味を持つか、筆者は考えたことがあるのだろうか。どうせなら様々な教師がこのような本を書けるくらいの「語り」を生徒に向けるべきであって、校長の考えが突出することには危険を感じる。

 このように批判だらけになってしまうのは、私にサラリーマンとして働いた経験がほとんどないことから来る"世間知らず"だからなのかもしれない。筆者から見れば、私のような感じ方は「甘い」ものなのだろうか。おそらく私と似た違和感を感じる現場の教師もいるだろうから、そこでどのような議論がされるのか聞いてみたいとも思う。
 民間人を学校に入れることには一長一短があり、無条件に肯定することはできない。違う分野の人が交流することには無条件に意味があるだろう。マンネリに陥りやすい学校では人の入れ替えが特に有効だろう。それらは十分認めた上で、私は「学校の就職予備校化」をめざす考え方、その考えに基づいた民間人教員化には賛成できない。学校にも社会にも、(人によって多様だろうが)めざすべき理想がある。学校の理想と社会の理想には、共通点もあるが相違点もある。オトナの理想をそのまま子どもにあてはめることはできない。子どもはオトナの予備軍ではなく「子ども自身」でもあるからだ。筆者が力んで説明しなくても、子どもには子どものクレジットや共感がある。そのことを認め受容した上で、オトナの世界と子どもの世界をどうつないでいくかを考えなければ、結局のところオトナのわがままを押しつける危険が残る。
 教師に必要なのは、何よりもまず子どもに向き合う力である。筆者にそれがないとは思わないが、社会人(私は『会社人』ではないかとも思うが)としての彼の経験が、子どもをよく見ることを逆に妨げているようにも感じられる。おそらく現場で働いているときには、筆者と補い合いながら子どもと向き合っている教師がたくさんおられるだろう。その「補い合い」こそが新しい可能性であって、実際そのような現場がどのように回っているのかをしっかり分析することが、学校をよくするために必要な調査だと思う。
 なお「13才のハローワークマップ」とは、村上龍氏の書いた「13才のハローワーク」に出てくる仕事をグループ分けして、ポスターにしたものである。村上氏の本の方はあまり面白くなかった(塾講師のところは笑えた)が、ポスターは悪くない。購入希望の人はこちらへどうぞ。(2006/7/25)


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