人殺しの感覚

 前回の『シルミド』に続いて、『ブラザーフッド』を見に行った。最近の韓国映画は『シュリ』を含めて3本見たが、全部戦争がらみだ。別にこういう路線が好きというわけではないのだが(妻の好みもあるが)、恋愛映画でないヒット作を選ぶとこのへんになってしまう。
 古い韓国映画と比べると、色々な意味でハリウッド映画に近づいているような気がする。画面の迫力、演出の凝り方、そして今回の映画のような「ヒーローの脳天気な強さ」。なんでただの靴屋さんがいきなり無敵の戦士になるねん。弟も後半は戦いまくりだが、心臓病じゃなかったん? そんなことに突っ込むのはヤボなのだろうが、戦争映画の中での強さというのは要するに人を平気で殺せる程度であるということを再認識させられた。自分の血族のためなら、他人の命などかまっていられない状況。そこでどれだけ無神経に人を殺せるかで、戦争映画の中での「英雄」は決まるということか。
 弟の命と、名前も知らない"アカ"の命とどちらが大事か? と聞かれたときに「どちらも大事だ」と言えない不条理の意味を問わないと、戦争映画は全部脳天気な時代劇みたいになってしまう。戦闘シーンがリアルであるほど、その脳天気さがわかっているはずの制作者に腹が立つ。いったい弟が大事だからといって人を殺す権利があるのか? 江戸時代の仇討ちの方が、まだ道理が通っているのではないか。
 時代の違いがあるとはいえ、韓国の映画で北朝鮮との戦争をこれだけ真正面から描いておいて、結局弟への愛情が一番大きいなんて…… これを北朝鮮の人が見たらどう思うのだろうか。もし北朝鮮がまったく反対の立場から映画をつくったら、韓国の人々はその映画を見てどう思うのだろうか。こういう話がヒットする韓国という国は、北朝鮮と統一する気があるのかな、とも思ってしまう。
 俳優の存在感がすばらしい(チャン=ドンゴンはおそらくヨン様よりうまい)だけに、映画そのものの主題に対してのひっかかりが残って、後味が悪かった。殺される側を描いた『ジョニーは戦場に行った』の方が、面白さは別にして"深い"ことは疑いようがない。アメリカではそういう映画はもうつくられないだろうか。(2004/7/15)

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