教師の資質

 「教育の鉄人講座」という学習会に行った。小学校の先生が講師で、主に基礎教育の方法について話を聞いた。
 彼は自称"実践家"で、「子どもがどう変わるかだけが大切です。どんなにいいことを言ったり書いたりしていても、子どもを変えるという事実がなければ何にもなりません」と言っていた。これはまったくその通りだ。他には
・子どもの成長は教師の成長から得られる。
・しつこさが必要。牛乳が飲めなかった子に毎日指導をして、1年でやっと飲めるようにした。
・同じことを続けても進歩がない。教え方をマニュアル化するのではなく、常に新しい教え方を工夫するべし。
・教科書見開き2ページについて質問を100個つくる。大変だがこれだけやると、よい質問をつくるコツがわかる。
・基礎を徹底すれば他のことにも影響する。計算が速くなった子が、他のことにも意欲的になった例がいくつもある。
 という言葉が印象に残った。
 いろはかるたの音読練習とか、文章の読ませ方のバリエーションも面白かった。小学生の指導には特に(飽きさせないために)細かい方法論が大切だと思うが、頭の中にたくさんの教え方が詰まっていることを感じさせた。(ご本人は『ドラエモンの四次元ポケット』と言っていた。なるほど)自分のやり方に満足せず、いつも新しいアイディアを追っている人だからこそ、色々な技術を操ることもできるのだろう。
 「質問100個」というのは有名な方法で、私も家に帰って理科の教科書を開いてやってみたが60個で撃沈。この先生は3年間これを続けたとか。これは教科書の読み込みにもつながるが、生徒とのやりとりを想定して質問をつくるので、教材と生徒とのつなぎ方を自然に考えることになり、非常にいい授業準備になるのだろう。私もこれから何回か挑戦してみようと思う。
 ……このような教師へのあこがれは確かにあるが、違和感も少しある。彼は「どのように」教えるかということについては十二分な力を示してくれたが、「何を」教えるかについてはあまり言わなかった。6時間の授業の最初と最後に基礎練習をするということだったが、生活科や理科については「そのへんの花の名前を聞く」とか「信号は青で渡ることを教える」とか、どうも要領を得なかった。本当にこんなふうにしているとは思わないが、国語や算数(特に計算)にくらべて、他の科目の教える技術の蓄積がどのくらいあるのか、算数にしても応用問題に対してどうするのか、ということも知りたかった。(国語については実際の授業のビデオを見せてもらって、ある程度イメージはつかめたが、率直に言ってそれが子どもにとってどれほどの授業なのか私にはつかめなかった)
 もう1つは「できるようになることの意味」の追求である。計算が速くできるのはいいことかもしれないが、そのためだけに学校に行っているわけではあるまい。問題はそのような基礎においての「成功体験」が、他のことに対してどう広がってゆくかであろう。
 私がこんなことにひっかかるのは、「できるようにさせることが一番大事で、そのためならスパルタでも何でもいい」ということを彼が言ったからである。私が生徒なら、どなられるくらいならできなくてもいいと思うときもあるだろう。「子どもがどう変わるかという事実がすべてである」ということと「教育は結果がすべてである」ということはイコールではない。もちろん彼がスパルタでやっているわけではないだろうが、教師の子どもへの向き合い方というのも教育の中には含まれると思うし、結果として子どもがどう育っていくかに影響すると思う。何を教えるかというテーマの中には、計算や文章の読解力だけでなく、もっと広い何かがあるような気がするのだ。
 こんな考え方は、教え方が下手な者の言い訳なのだろうか? 別に彼に反論する気はないのだが、どうも教師の中には「何を」教えるかに熱心な人と「どのように」教えるかに熱心な人がいるように思う。私は両方のおいしいとこどりをしたいのだが、そんな能力や気力があるんだかどうか。
 「教育の鉄人」というタイトルは決して大げさではなかったと思う。彼は「自分は特別な人間ではない」と言っていたが、教師の現実を見るときやはり彼は「特別」なのだ。教師の資質とは子どもが好きなことだ、という言葉を私は自分の支えにしているが、教師の鉄人の資質はそれだけではない。もしかしたら、子どもが好きなことと優秀な教師であることは、まったく別次元のことなのかもしれない。彼の中にある資質は(彼自身が言っていたように)ひとえに粘り強さだと思うが、もしそれが教師の資質なのだとしたら、子どもや保護者や社会の教師に対する基準は今とはかなり違ったものになるだろう。(2004/8/28)

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