守りきれないとしたら

 「子ども時代のためのアライアンス」という集まりに参加した。アライアンスというのは「同盟・協力・連合」という意味で、大ざっぱに言えば子ども時代のあり方、オトナのあり方を含めて子どもの育て方を考えようという集まりである。
 阪急烏丸で降りて、時間があるので四条から丸太町まで歩いた。京都はいつ訪れてもなつかしい。街中の雰囲気は以前とそんなに変わらないが、ベローチェとかドトールとか外資系のコーヒーショップができているのは博多や大阪と同じ。やっぱりだんだん京都らしくなくなっていくのかな。
 夷川通りの裏に「京都市子育て支援総合センター・こどもみらい館」というすごい名前の施設がある。幼稚園が隣にあって子どもが鈴なりになって遊んでいた。みらい館の前には公園があってここでも親子連れが戯れている。みらい館の1階は「こども元気ランド」という遊び場になっていて、2〜5才くらいの子どもがたくさん遊んでいた。保育士の人が何人も子どもを見ていて、保護者がいなくても安心して遊べそうだ。昔はこんな場所はなかったけど、外で遊ぶ環境は今よりよかった。どちらがいいのか? ……なんて考えながら、普段あんまり見ない年頃の子どもをボーッと見ていた。あんまりかわいいとも思えない。遊ぶパワーがもっとあってもいいのに、なんて勝手に思ってしまう。
 4階の会議室で10人少し集まった。主催者のMさんは以前同じ塾で働いていた人で、守口で個人塾を開いているとのこと。人智学(……? 知らない)の勉強をされているらしい。京田辺のシュタイナースクールに子どもを通わせている人、滋賀県から来た子連れの方など。ひとりひとりが自己紹介している間、子どもたちがお絵かきをしているのを見ていた。自分のレポート用紙をちぎってあげると、3才の女の子が絵を描いて見せてくれた。「これ何?」「鬼のパンツ、これも鬼のパンツ」鬼はひとりしかいないのに、パンツをたくさんかいている。 ♪おに〜のパンツ♪ がお気に入りなのかな。
 話題は教育基本法の改定やらシュタイナースクールの卒業後の進路やらまとまらなかったが、Yとしてはお母さんの意見が興味深かった。
 「幼稚園の先生で『絶対一番になりなさい!』という先生がいてちょっときつい」
 「私の子どもの小学校でも、競争意識をかなり持たせようとしています」
 塾から見ると、小学校は"悪平等"のかたまりみたいなイメージ(偏見だろうが)があるので、少し意外だった。
 「塾では、『小学校ではあんまり競争していないだろうから、塾ではガンガン行くぞ』なんて言ってます」と言うと、お母さんたちはエーッという顔をしていた。こんな調子だと子どもはつぶれちゃうよ。もっと学校の様子を聞かないといけないのだろうな。
 自分の自己紹介では、「昔とくらべて塾に行く子どもが増えているのに、学力は確実に低下している。子どもが遊ぶ環境がこわされていることが、結局学ぶ力にも影響していると思う。」と話した。これは私の持論である。お母さんたちは真剣に聞いてくれて、ありがたいが少し恐縮してしまった。別の人から「小さい子どもを見ていると、遊ぶことと学ぶことはほとんど境界線がない。楽しく遊ぶことを知っている子は、楽しく学ぶこともできる」と言われ、自分の考えを補強してもらったようでうれしかった。3才くらいの子が「なんで? なんで?」と質問しまくる時期があるが、あの頃にうまく対応していければ、勉強の楽しさを身につけていってくれるような気がする。遊びを中心とした時期の中に、すでに「学ぶことの楽しさ」を感じさせるヒントがあるのだと思う。
 奈良の小学生殺害事件の直後なので、子どもの安全についての話題も出た。送り迎えをするかどうかで色々な意見が出た。ある人が「学校の行き帰りまで子どもを管理したくない。道草しながら帰るのも子どもにとっては大切な経験だ」という意味のことを言われた。わかるのだが、何となくひっかかって聞いてみた;
 「もしお子さんが事件にまきこまれて亡くなっても、後悔しない自信がありますか」
 「直後は逆上するかもしれないが、それはそれでしかたないと思います。そういう自信がなければ、親はできません」
 たしかにそんな事件でなくても子どもは事故に遭うし、それで亡くなることもある。完璧に守ることなどできるはずがない。学校からの帰り道に遊ぶ自由くらい保障してあげたいのも全く異存はない。それでも……まだ何かがひっかかり続けた。
 昔 伝染病で多くの子どもが死んだ時代なら、病気の責任がオトナにあるとは言えないだろう。避けられない事故で亡くなる場合も、オトナの責任とは言い切れないかもしれない。しかし今の子どもを襲う危険が、それと同じと言えるか?
 毎年自動車事故で亡くなる子どもは、数百人はくだらない。自動車をつくり出したのも運転しているのも、危なっかしい運転をする人を規制しきれないのもオトナだ。たとえ自分が事故を起こしていないにしても、これだけ子どもにとって危険なものを放置しているのはオトナ全員の責任だ。それで「しかたない」と言い切れるか。
 子どもを襲うオトナを育てたのも、この社会だ。人間は同じ種を殺す本能を持っていないから、人殺しに生まれるのではなく、世の中が人殺しを育てているのだ。犯人を責めるのは容易だが、犯人を育てたこの社会を構成しているのは私たちだ。犯人だけの責任だと、本当に言えるか。アメリカ軍の人殺しを率先して支持する政府を持つこの国のオトナは、「人殺し」を育てていないと本当に言い切れるか。
 たしかに私は、子どもの行き帰りの道を管理することには賛成しない。子どもの自由な時間を保証してあげてほしいとも思う。しかし……私が親なら、説明してから子どもに選ばせる。「自由に帰ると、こういうこわいこともあるかもしれん。それはお父ちゃんたちオトナのせいや。悪いなあ。でも帰り道に遊んで楽しいことを見つけるのは、今しかないんや。こわいことあるかもしれんけど、思い切り遊んでほしい。でも……どうしてもこわいんやったら、できるだけお父ちゃんやお母ちゃんがついていったる。どうしたい?」 ……こんなふうに話すことしか思いつかない。オトナがつくり出した危険に対して「しかたない」と言いきる自信は、私にはない。
 4時間の話し合いが終わって、次は2月に集まりましょう……ということになった。長時間だったこともあったが、普段あまりないノリだったせいか妙に疲れた。何人かのお母さんがいたわってくださったが、なんとも情けない。
 親でない人には親の気持ちはわからない、というのは本当だと思う。でも、親には子どもの気持ちがわからない、というのも本当ではないか。子どもの安全を考えるのは大切だが、どこまで子どもの主体性を尊重するか、子どもの環境をつくっている私たちの責任は何か、そういうことも考えてみる必要があるのでは……ないかなあ。(2004/11/27)

 子ども時代のアライアンスのホームページはこちら


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