橋の上、橋の下

 何度通ってもフェリーはしんどい。福岡から12時間かけて船は朝8時に大阪南港に着く。ここから地下鉄を3回乗り換えて1時間あまり、ようやく駅について喫茶店でコーヒーを飲んで一服。10時前に喫茶店を出て、大きい橋を渡って家に帰る。
 カゼの抜けないノドのまま橋を歩いていくと、女の人が欄干に手をかけていた。手がふるえている。まさか…… と思いながら見ていると、顔に手を当てて少し泣いてから身をのり出しかけた。《ホントに飛び降りるはずがない》《俺ひとりで止められるか?》 色々な気持ちが交錯したが、とにかく声をかけた。「大丈夫ですか?」返事をしない。不安になったので欄干を握っている腕をつかんで「ちょっと待ってください」と言うと「見なかったことにしてください……」
 やばい、これは本気だと思って「見なかったことになんかできません。時間をください」と言いながら両腕をつかんで引き留めた。「もうこれ以上迷惑をかけたくないんです」「忘れてください」と言いながら、彼女は飛び降りようとした。自分が彼女より重いことに感謝しながら(?)両腕をつかんで「待って、時間をくれへんか?」「今飛び降りたら、その方がこっちの迷惑や」などと思いついたことを言いながらドウシタモノカと思案していると、近くにいた高校生(女の子2人)が寄ってきてくれた。「電話してください。110番」「119番の方がいいのかな?」「そうですね、とりあえず119番に」いのちの電話の番号を覚えておいた方がいいのかな、と一瞬思った。
 高校生2人と一緒に彼女を押さえて10分、「大丈夫?」とおばさんがひとり声をかけてくれただけ。けっこう人通りの多い橋の歩道を、みんな何も言わず通り過ぎていく。彼女は時々大声を出したり欄干に近づこうとしたり、うつむいて顔を見せないまましゃがみ込んでいる。自分が彼女の立場だったら……どうしてほしいだろうか、止めてほしいだろうか、という思いも頭を通り抜けた。が、実際にここにいるのは自分ではなく「彼女」だ。
 「ここで飛び降りたら、この子たち(高校生)がやってくれたことの意味もなくなるんやで」「言ってラクになるんやったら、何でも言ったらええやん」「今はいい薬があるから、ラクになる薬を探してみようよ(これは私の実感)」 彼女は「入院させられる〜〜!」と叫ぶ。「今は強制入院はないから、イヤやったら断れるんやで」「そんなことない!」 自分の時はパニックになりながらも「イヤだ」と言ったら入院せずにすんだが、今でも場合によっては強制入院(本人にとってそう思えるならそれが強制)とかあるのかな、とも思った。
 以前テレビで「あなたが死んだら私は悲しい」というメッセージがいい、というのを見た覚えがあるが、名前も何も知らない彼女にこんな言葉を言ってもムダじゃないか。どうしたらいいんだ、いっそ抱きしめてしまった方がいいのか? などとゴチャゴチャした頭のまま、救急車を待ち続けた。高校生の2人も手をにぎったり背中をさすったりしながら、彼女に言葉をかけている。
 電話をしてから10分あまり、119番にかけたのにパトカーが来た。警官が来てパトカーに乗せようとするのだが、車道と歩道の間のガードを越えさせられない。車道に行ったら車に向かって飛び出してしまうかもしれない。しかたがないのでパトカーを橋を渡ったところまで動かして、彼女をみんなでそこまで連れて行くことにした。歩くかな? と心配したが、なんとか腰を上げて歩いてくれた。自転車に乗っていた高校生はYの荷物も運んでくれた。10分あまり歩いてようやく橋を渡り下の道に降り、彼女はパトカーに乗せられた。Yと高校生は名前や住所を聞かれ、警官から「ありがとうございました」と言われて"無罪放免"となった。
 一緒にいた高校生2人は困った表情も見せず、学校に歩いていった。たいしたもんや。太宰府で買ってきた合格鉛筆をあげればよかった(って、ホントに後の祭り。もしもしもしこのHPを見たらメールをください。)

 彼女はこれからどうなるのだろう。あそこで飛び降りずにすんだとしても、今からうまく立ち直れるだろうか。ずいぶん恵まれている私だって、あちこち病院や治療法や薬を渡り歩いて、未だにうまく治療できていると言い切れない。もっと条件に恵まれていない人は、おそらく満足に医者や薬を探す余裕もないだろう。自分の治療法を勧めることもできないし、「がんばれ!」と励ましてもほとんど意味がない。警察の人はきっと家族に引き渡すのだろうが、家族が本人を助けられる可能性は(気の毒だが)おそらくあまりない。
 私も、飛び降りようとしてマンションの11階から下を見たことがある。小学生の頃 年の近い子どもが飛び降りて亡くなったという話を聞いて、自分でもできるかなと思った。20代の時にも死のうとして同じ場所に行った。下の道路が小さく見えて、まるで別の世界を見ているようだった。 ……飛び降りることができるのはきっと、勇気のある人だ。私にはそんな勇気はなかった。
 今でも自分の中に死にたい気持ちはあるけれど、だからといって彼女の気持ちがわかるなんて言えない。斎藤学氏は「自殺は、脳のほんの一部の反乱だ。体のほんの一部だけの意志で全体を壊すのは愚かだ」と書いた。心のガンと言ってもいいかもしれない。ガンと同じように、死ぬのを防ぐ決定的な方法はまだない。「あなたが死んだら私は悲しい」というメッセージも、本当にしんどい時には多分心に届かない。主観だけで言えば(申し訳ないが)医者もカウンセラーも土壇場では無力だ。
 どうすればいいのか、私にはわからない。きっと決まった答はないのだと思う。あの時の彼女に対して私たちができたこと、死にたかった私に対して友人がしてくれたこと、それは何かの法則や治療法ではなくて「人間と人間の間の感情のやりとり」だけだった。人通りの多い橋のまん中で飛び降りようとした彼女は、もしかしたら誰かに止めてもらいたかったのかもしれない。もしあのまま彼女が飛んでいたら、彼女の中には「誰も止めてくれなかった悲しみ」が最後に刻印されただろう。夜を選ばなかった彼女は、誰かを待っていたのだろうか。 ……こんな私がその誰かになれたのなら、今度は誰かが私を止めてくれるのだろうか。(2004/12/3)

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