祖母と妻のはるかな道

 私のつれあい(妻)は、ここ10年来祖母の世話をしている。
 妻は3才の時に母親をガンで亡くし、おばあちゃんがずいぶんお母さん代わりをしていたらしい。後で新しいお母さんも来たのだが、精神的なつながりの深さではずっと一緒に暮らしてきたおばあちゃんの方が上なのだろう。
 おばあちゃんは1900年生まれの104才で、妻と私が結婚した12年前には、骨折の影響で少しずつ歩くのがしんどくなっていた。最初妻と私は新居を探していたのだが、ある日妻が「おばあちゃんの面倒を見たい。実家でおばあちゃんと一緒に住みたい」と言い出した。おばあちゃんを預ける老人ホームを色々見ているうちに、考えるところがあったらしい。妻の実家には兄夫婦がいて、妻と共同でおばあちゃんのお世話をしていたのだが、この家を改築して兄夫婦とこちらの2世帯住居にし、共同でおばあちゃんの世話を続けようということになった(部屋代は払っていません)。
 私がこの家に来た時は、おばあちゃんはつかまり歩きをして、トイレに行くのがかなりしんどい状態だった。学校に通っていた私を「先生、先生」と呼んでいた。いつも何か言いたそうなのだが、何が言いたいのかどうしてもわからなくて、お互いにイライラしてしまうこともあった。妻はしんどそうなおばあちゃんが少しでも歩けるようにリハビリをしていたが、やがておばあちゃんは歩けなくなり、そのかわり夜中にはい回るようになった。
 体が動かなくなることよりも、言葉が通じなっていく方が、接していてしんどかった。おばあちゃんは妻や私の前で、何度も「さびしい、さびしい」と言った。何がどう寂しいのか、どうしたら寂しくなくなるのか、妻にも私にもわからなかった。おばあちゃんが好きだった童謡や落語を聞かせたり、昔の話をおばあちゃんに聞いてみたりした。夜中にこっちの部屋まで這ってくるのにはさすがに参ったが、眠れない長い夜を思うとそれもどうしようもなかった。
 車いすに乗せて、花火大会やお花見に行ったこともある。お花見の時は桜も外の空気も気持ちよさそうだったが、花火はもうよくわからなかった。妻はおばあちゃんが少しでも動けるように、ヒマを見ては膝の曲げ伸ばしをしたりしていたが、1年1年おばあちゃんの体は動かなくなり、だんだん意味のある言葉も出なくなった。体の衰えと頭の衰えがつながっていることを証明しているようだった。
 おばあちゃんの気分転換も兼ねて、近くの老人ホームのデイサービスに預かってもらったこともあった。おばあちゃんはもううまく話ができなくなっていたが、同じお年寄りと一緒にいることで刺激をもらえたのか、元気になって帰ってくることもあった。100才のお誕生日お祝いに歌ってもらったときは、よくわかっていないおばあちゃんのとなりで妻が泣いていた。
 4年前に胆管炎の手術をした頃から、おばあちゃんは寝たきりになった。妻は3時間置きにおしめを替えたり寝返りを打たせる。たまにおしめを替えるのを手伝った。部屋中にこもったにおいに私は時々耐えられなかったが、妻は平然と、時にはシーツに漏れた汚れを数時間かけてきれいにしていた。長いこと来ていたお手伝いさんが引退してから、平日はずっと妻がおばあちゃんの世話を続けた。体温や体位交換や体調を記録したノートはもう50冊をこえた。妻の睡眠時間はズタズタになり、夕食が終わるとそのまま沈むように寝るようになった。私は忙しい時期もあったが、それにしても家事の手伝いができなかった分彼女の負担になってしまった。
 赤ん坊なら成長していつかオトナになる。いつ終わるかわからないまま人生を逆戻りしていくおばあちゃんの世話を続ける妻に原動力があるとしたら、愛情以外に考えられない。
 3年前に、食べ物がむせやすくなった。気管に食べ物が入ると肺炎の原因になる。命取りの恐怖と闘いながら妻はおばあちゃんに食事を与え続けた。胃に直接チューブをつないで栄養を入れる「胃ろう(PEG)」をするかどうか決める時、私は妻にそれを強く勧めた。おばあちゃんに残された数少ない楽しみである"食べること"をとりあげてでも、妻の不安を減らしたかった。妻は大きな本屋で胃ろうの本を探し、新しいケアの方法を勉強した。私は図書館で胃ろうの専門書を探してきて、妻の指定したところをコピーしまくった。
 以前は手が自由に動いて、手で感情を表していた。おしめを替える時は押さえている私を叩き、誰かを呼びたい時は畳を叩いた。胃ろうを始めた頃から手も動きにくくなった。爪が手に食い込んで傷がつかないように、しょっちゅう爪を切っている。
 この冬はインフルエンザが心配だったが、胃ろうの接続部を定期的に交換するために入院した1月はじめまでは無事だった。退院する直前に熱が上がり、退院が延びた。熱の他に、食道にガンができてつばが飲み込みにくくなっているらしい。10日ほど延長してからやっと家に帰ってきたが、それからは高熱が出やすくなった。せきをする力もあまりないので、カゼをひいているのかどうかもよくわからない。退院して2週間くらいすると急に呼吸が苦しそうになった。肩を大きく動かしながらノドを鳴らして息をする。かかりつけのお医者さんに来て診てもらったが、肺は異常なさそうだし酸素飽和度も十分だという。医者が来る時に限っておばあちゃんは楽そうにしている、と妻は言う。
 しばらく様子を見てもよくなる気配がないので、もう一度お医者さんに来てもらった。血圧の上が86。肩で息をし続けて顔も白くなってきた。これは入院しかない、ということで救急車を呼んだ。妻と義兄が付き添って病院へ。妻とおばあちゃんを見送りながら、私はその時が来るのかなとボンヤリ考えた。
 6時間あまりして妻が帰ってきた。いつもの病院が満室なので、当座の処置が終わってから別の病院に移ったとのこと。やっぱりインフルエンザだった。さらにガン性胸膜炎にもなっていて、左の肺はほとんど機能していないらしい。60代並みですとほめてもらっていたおばあちゃんの内臓も、さすがにだいぶへばってきている。ここを乗り切れば……春を迎えられたら……せめてもう一度、100年暮らした自分の家に帰れたら……
 1週間してインフルエンザがなんとか治り、胸水を2度抜いて、ここ数日は少し落ちついてきた。胸水がなくなってくれば普通に呼吸できるので退院できるという。妻はひたすらいい方に望みをかけている。病院まで通うのもしんどそうだが、親戚の人も手伝ってくれるし、家ではかえってゆっくり寝られるので、妻には一長一短かもしれない。

 現東京都知事は、重度障害者の病院を視察した後で「ああいう人ってのは人格があるのかね」と言ったそうだが、人格というのはあるとかないとかいうものではないだろう。人格とは、見ようとする相手だけに見える一種の虚像なのだ。人間の人間らしさは他者との関係の中でしか現れないからだ。実体がなければ虚像は見えないが、見ようとする人間の「虫メガネ」の形によって像の見え方は違う。おばあちゃんとの40年余の暮らしを背負ってきている妻には、話もできない意志も通じないおばあちゃんの人格がはっきり見えているに違いない。私にはおばあちゃんの人格はボンヤリとしか見えないが、おばあちゃんの生を祈り続ける妻を見ていると、人間の人格が外見だけで判断できるようなものでないことを思い知らされる。おばあちゃんを愛し人格を尊ぶ点において、彼女は天才である。東京都知事にはこのような人と出会う幸運がなかったのだろう。気の毒なことだ。
 お年寄りを看護し看取った人が本を出すのは、亡くなった人との必死の生活の跡を残しておきたいという思いもあるのだろうか。妻が書いたおばあちゃんの看護ノートの山を見ていると、たとえば胃ろうのやり方、床ずれを起こさないための寝返りの打たせ方、胆管炎の前兆の出方など、他の人の参考になりそうな記録もたくさんあるが、もちろん妻はそのためにノートを書いているのではない。これは祖母と妻の生きてきた記録だ。しかし記録がなくても、言葉をなくしたおばあちゃんの生きてきた意味は、何よりも妻の中に残っている。人間が生きることの最後の意味は、人間と関わることの中にしかないだろう。思想も政治も何もかも、そこから考え始めたい。妻は私にとって最高の教師だ。(2005/2/23)


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