勇姿再び

 以前教えていた生徒のコンサートに行った。高校のギターマンドリンオーケストラクラブの卒業演奏会だ。昨年も呼ばれて行ったが、最後の方で3年生が泣きながら演奏していたのが印象的だった。
 彼女は塾で理科を選択していなかったので、直接教える機会はあまりなかったのだが、いつも笑顔で独特の雰囲気があって面白い子だった。私立の女子校に行き、塾の近くのマクドでバイトしたり勉強のことで相談しに来たりしていたが、AO入試で京都の大学に合格した。
 マンドラは以前勤めていた学校にもあったが、バイオリン等と比べると音のアタック(最初の強さ)が出にくそうで、曲によってはしんどいなあと思うこともあった。個人的には民族舞踊のような曲が合っているような気がする。
 30分ペダルをこいで会場に自転車で行くと、すぐコンサートが始まった。客席は結構埋まっていて男の子も多い。指揮者なしの校歌の後、彼女が指揮者として出てきた。あんまり緊張しているようにも見えない。昨年と比べるとタクトの振り方がスムーズになったかな? 3年前と同じ、感情を覆い隠しているような不思議な笑顔。
 部員が17人ということで、何人か卒業生(OG)も助っ人として入っているようだ。1部はクラシック3曲。『セレナータ=ノットゥルナ』はあんまり好きでないモーツァルトの割にはお茶目で面白かった。主旋律の陰で半音ずれたメロディーを弾いているのが妙におしゃれだったが、あれはもしかしたらミスタッチなのか……な? でもバイオリンより音が濁らなくて合っているような気がする。自分も使ってみようかな。最近はクラシックをあまり聴かないので新鮮だったが、もうちょっとメリハリがあってもいいか。
 2部は『動物の謝肉祭』全曲聴くのは小学校以来か? ピアノやフルートが入って音がにぎやかになり、1曲丸々ピアノソロというのもあった。『ピアニスト』という曲を『マンドリニスト』に変えており、マンドリンがてんでんばらばら弾いて指揮者が頭を抱える、というギャグまがいのパフォーマンスもなかなか面白かった。
 3部はOGが大量に入り、一気に大編成になった。ステージ狭しと並ぶ楽器から流れてくる音が塊になって飛んでくる。さっきまでとは違う。少人数にはそれなりのよさがあるのだろうけど、やっぱり生で聴くならこのくらいの迫力がほしいな。日本人の作曲した交響詩『北夷』は和旋律をさりげなくつまみ食いして独特の味があった。クライマックスになった時、楽器からではなくオーケストラ全体から深い音が響いてきたような気がして、身震いした。感動というより圧倒された。音楽の本当のパワーってこういうもんかな。最後の『英雄葬送曲』では彼女はマンドリンに回り、大柄な顧問の先生がタクトを振った。のっている台が壊れそうなくらいダイナミックな指揮。彼女もこの先生を見て指揮を覚えたんだなあ。
 アンコールはメンデルスゾーンの『結婚行進曲』。誰かのお祝いかしらん。彼女は少し泣いているようにも見えたが、最後まで笑顔を切らさずにタクトを振り続けた。同じクラブの卒業コンサートでも去年と随分雰囲気が違うのは、当たり前ではあるがなんだか不思議だ。でも卒業の重さ、クラブで積み重ねてきたものの重さは、端から見ているだけではわからない。彼女もきっと、彼女自身の選んだ最高の方法で卒業の儀式をくぐり抜けたのだ。
 18年前 5年間やってきたわたぼうしコンサートをやめる時、最後の大阪コンサートのために全力投球しようと思った。塾のバイトも大学院の調査も放り出して、2週間コンサートの準備に没頭した。楽譜を書きまくり京都から奈良まで何度も往復し、リーダーでもないのに練習の段取りも勝手に自分でつくった。ステージが終わった時は脱力してしまって、遠方から見に来てくれた友人のことも忘れてしまった。そう言えば……あの時も涙は出なかった。感動して泣くことはあるだろうが、感動を通り越すと涙も出ない。今年の彼女も、もしかしたら同じように涙を通り越していたのだろうか。

 OG会会長が挨拶で「このクラブで一番大切なのは、チームワークです」と言われていた。たしかにコーラスやブラスバンドなど音楽系のクラブに大切なのは、何よりもチームワークだ。全体のために個人を犠牲にする精神。言葉で言うとひっかかるし重たいけれど、どの楽器からでもないあのステージのまん中から聞こえてきた"音"を出すことそのものが、チームワークの目的なのだろう。(これは「国のために命を投げ出す」と似ているが、実は正反対の行為である。彼女たちは何かを投げ出すのではなく、自分の音を最大限に生かすために音を全体の中に差し出すのだ。)私にはステージでそういう感覚を持った経験がない。自分自身が音楽の中に入り込んで、まるで自分でない誰かが音を出しているように感じたことはあるが、バンド全体の中から「1つ」の音が出てきているように思えたことはない。私にチームワークの素質がないと言われたらそれまでだが、もしかしたらこれは単に弾く側と聞く側の感じ方の違いであって、私のいたバンドでも調子がよければ、客席の人には「ステージのまん中から」1つの音が聞こえていたのかもしれない。もっとも最近はほとんど1人で音楽をつくったり歌ったりしていて、チームワークも何もあったものではないので、ちょっぴり彼女たちがうらやましい。
 本命の公立高校に行けなかった彼女は、そのことをグチったりしなかったし、必ずしも評判のよくない(地元からの偏見を受けている)その女子校の悪口を言うこともなかった(教師の悪口は言っていたが)。勉強やバイトや遊びだけに埋没せず、クラブの指揮者を見事につとめあげた。そんなに勉強好きというわけでもなかったが、高校の中で特進コースに上がりたいと私に言いながら、合格できなかった件の公立高校からではとても受かりそうにない大学に入ってしまった。私立に行った子のこういう"足跡"は何度も見てきているが、彼女のようにさわやかにやってのけた例はあまり知らない。
 塾講師にとって志望校合格は死活問題であるが、子ども本人にとってはそうであってはならない。入試の結果がどうであろうが、子どもにはまちがいなく未来がある。あの言い方を借りれば、学校に貴賤も上下もないが、個々の学校生活には上下があるのだ。どんな学校にも長所と短所がある。生徒本人に意志と能力があれば、おそらくほとんどの場合、その学校に適応しながらうまく自分に合った学生生活を見つけ出すことが可能だ。ここでいう能力とはテストの成績等ではなく、自分のしたいことと実際に学校でできることをうまく重ね合わせる力である。いい友人を見つける力、自分に合ったクラブを選んでやり通す力、次の目標をつくってめざす力。その能力を培ってこなかった子どもは、本命に受かろうが受かるまいが、次の学校で苦しまざるを得ない。本気で子どものことを考えるのであれば、合格する力だけでなく、その先をうまくこなす力を育てなければならない。彼女がどうやってその力を身につけたのか、その"秘密"は教師にとって貴重なものだ。
 ○○さん、呼んでくれてありがとう。Yもがんばらないとね。(2005/3/23)


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