つまらないセンター試験

(2009年1月17日)

 今日は朝早く起きて、センター試験の門前激励に行った。
 折尾駅で生徒と待ち合わせ、20分かけて試験会場まで歩いた。
 本人は友人といたせいか緊張している様子はなく、それがかえってこちらから見ると不安に感じたくらいだった。カイロを渡し、大学の入り口で握手をして別れ、恒例の?東筑軒でうどんを食べて帰宅。

 理科以外の大学受験指導をしたのは随分久しぶりで、今回は数学の他に国語まで教える羽目になり、過去問を延々解いたのだが教えるスキルまでは身につかず、あまりうまくいかなかった。(自慢じゃないけど共通一次の国語は120点だった。古文捨ててたし)

 数学や国語のセンターを解いていて感じるのは、この試験のために勉強するのが、本当に本人のためになるのか、ということだ。
 理科を解いているときにはあまり感じなかったが、数学を解いているとやたらと「時間のなさ」を感じる。数学の地力をみると言うより、要領よく問題をさばいていくズルガシコサを試しているように思える。
 もし試験時間が3時間なら、解き方を工夫したり思考の寄り道を楽しんだりもできるだろうが、60分だとひたすら最短距離を走るしかない。そういう試験のための勉強をすること自体が苦痛になることも多いだろう。
 本屋に行くと色々裏技の書かれた本が出ているが、こういう試験だと特に裏技が有効になる。数学のマークシート形式の出題では、本来あり得ない"邪道な"解き方があちこちに出てくるのだ。勉強量よりも情報量(これも一種のズルガシコサか)が決め手になることもあるだろう。しかし試験で点数をとるだけのための裏技が、本人の実力のためになるとも思えない。

 国語でも、まあ私の実力不足と言えばそれまでなのだが、やたらと細かいところを突っつく質問ばかりで、こんな問題を解けば解くほど国語嫌いになるのではないかと思える。
 日本語を正確に読む力は、もちろん必要だ。しかし若い人に必要なのはそれだけではあるまい。文章に対する批判力、自分を作者に対置して思考を深める訓練、表現力、それらをすっとばして重箱の隅をつつき続けることが、本当に高校生にとっていいことなのだろうか。

 私はそもそも入試廃止論者なので、ことさらマークシート試験だけを敵視するつもりもないが、それにしてもセンターの勉強をしていると妙な疲労感を感じることが、どうしても気になる。
 入学試験が「学生を枠にはめ独創性を失わせる」という欠点を持つのであれば、マークシートテストはそれに加えてさらに「試験の内容自体を枠にはめ勉強の魅力を失わせる」ように思われる。毎年10万人以上の若者がこの試験を受けていることを考えると、(私の考えが正しいならば)これほど教育にとって有害なものはないのではないか。

 もっと本質的に言えば、(また受け売り)


 何学問でもそうだが、その最初からの研究方法を教えずに、ちゃんとできあがった学説を真最初から覚えこますのが、今日の学校教育である。(中略)
 ……これはちょっと見にははなはだ結構なことのようにも思われるが、しかしその実際をよくよく考えてみれば、はなはだ怪しからぬことなのである。すなわちかくのごとき書物の書き方は、教育を官営する国家にとって、次のごとき二重の利益がある。まず第一には将来国家のために有用な人物となるべき生徒に、短い時間にいろいろなことを覚え込ませることができる。そして第二には、国家のためには常に有害な個人的思索の能力を、早くから減殺させてしまうことができる。
(大杉栄『個人的思索』より。中央公論社、日本の名著46)

 というのが今の学校教育の最大の問題点であり、それを象徴するのがこのセンター試験のように思える。国語の問題では文章の作者の思想に異を感じることは成績のためには有害であり、問題作成者のつくった誘導にうまくのっていくことが高得点の秘訣である。(そして大杉栄のような文章は、教科書にも試験にも出てこない)

 町のあちこちにホームレスの人がいて、それを虫けらのように無視して通り過ぎる人もいる。戦争で多くの人々が殺されていても、異国というだけで自分の生活を優先させてしまう。自分の国の政治がグダグダになっていても、そのことについて声を上げて行動する人がほとんどいない。
 ……それらはいいか悪いかは別にして「自分の考えを持たない、持とうとしない習慣」からきているものだろう。封建主義と言ってもいい。
 そしてそのことと、この国の入試制度や試験の内容が無関係であるとは思われない。
 高校まで「自分で考える習慣」を持たなかった学生が、大学でいきなりそんなことができるはずがない。そして個人的な嗜好を別にすれば、今の日本はオトナになっても「何も考えずに生きていく」方がラクであるように仕組まれていて、そのシステムに反抗する人が多いとは言えない。ほとんどの日本人は民主主義が嫌いなのだ。
 私が人のことをえらそうに言えるはずはないのだけれど、自分のやっていることが本当に生徒のためになっているのか、生徒の成績を上げることが本当に生徒のためなのか、この国のためなのか、どうしても考えてしまう。
 私にできることがあるとすれば、そうでない勉強、自分で考えるための勉強を教えることだ。自分自身がマークシート育ちである私に、そんなことが本当にできるのだろうか。(2009/2/4)


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