週刊金曜日を購読しないわけ

 お金をケチって船で帰阪したのは、どうも失敗だった。1年ぶりに乗る名門大洋フェリーは特に変わっていなかったが、お盆の帰省ラッシュで2等船室は混んでいて、普段はいつでもどこでも寝られる妻が眠れなかった。疲れを引きずったまま大阪の家に帰っても、片付けがはかどるはずがなかった。年内にもう1度帰って、本気で荷物を何とかしなければならない。
 お盆の大阪は福岡より暑くて、片付けを続ける気力のない私は、捨てずにしまっておいた雑誌を切り抜くと称して、久しぶりの大阪ローカルテレビを見ながらエアコンで涼んでいた。以前購読していた『たのしい授業』と『週刊金曜日』である。『理科教室』も何年か購読していたが、こちらは昨年引っ越すときに全部処分してしまった。
 週刊金曜日は発刊以来購読していたが、4年前に決心してやめた。本多勝一のファンであることには変わりないが、どうにも読む気がしなくなった。乱暴な表現を承知の上で書けば、当たり前のことしか書いていないのだ。自民党が戦争を望むのも、日本政府が環境問題に本気で取り組まないのも、女性の人権が今の世の中できちんと考えられていないのも、1+3=4と同じくらい当たり前のことだ。私たちは生まれたときからそのような社会に暮らし続けているのであって、本質的な変化は何もない。社会の様々な問題点を学ぶことに意味がないとは言わないが、それでは小学校の社会の教科書と同じだ。
 私が知りたいのは、このような現実ができた歴史の徹底的な分析、あるいは現実を変える方法論の追求である。
 資本主義が社会主義になるのが歴史の法則ではない。国家による殺人が減るのも歴史の法則ではない。しかし現在の日本社会ができた過程には、何らかの因果関係また弁証法的発展があることは疑いない。その分析がなければ世の中を変えることはできない、という仮説をさしあたり私は捨てられないので、文献を自分なりに探しているのだ。金曜日の中にそのような論文がないわけではないが、たとえば岸田秀氏や村岡到氏の単行本の方が私には魅力的だ。
 集会やデモや署名の案内も役には立つが、インターネットの情報力にはかなわない。金曜日に望むのはそのような情報ではない。具体的に日本の中でどんな運動が存在し、その中で人間がどのように考えどう動き、どのような成果を上げ得ているかいないか、さらにもう一歩進んで「どのような運動をこれからするべきか」ということについての議論を望みたい。集会やデモや署名がいけないというのではない。しかしそれだけで今の世の中が変わるとは、私には思えない。もっと生活に根ざした、本人の利害関係と直接対決するような勇気のある活動が必要とされているのではないか。そこを本気で追求しないのは、一種の自己満足にすら思えてしまう。言い過ぎだろうか。
 現在購読しているのは赤旗と原子力資料情報室の定期資料だけだ。新聞も資料もあまり真面目に読んでいない。半分カンパのつもりでお金を出しているので、読まなくてもモッタイナイ感じはあまりない。金曜日に対してそう思えないのは、裏返せばこの雑誌にそれだけ期待したいからだ。読まないが買う、という雑誌でいてほしくないのだ。
 ……そんなことを考えながら切り抜きをしていたわけではないが、百冊をこえようかという雑誌に目を通して切るのはさすがに疲れた。たしかにいい記事もたくさんある。もしかしたら私の側に「読むパワー」が不足しているだけなのだろうか。でもどうしても、何かが足りないような気がするのだ。文章の中に人間が見えないように思えてしまうのだ。2次方程式と格闘している中学生の方が私にとって魅力的なのだ。これは何なのだろうか。私の「病気」のせいなのだろうか。
 博多に帰ると、金曜日の最新号の見本が届いていた。もう一度購読してみませんか、ということだ。体裁が多少変わっているように見えたが、やっぱり買って読もうという気にはなれなかった。こんなご託を並べているヒマがあるなら、私自身が納得のいく文章をここにでも載せるべきなのだろうか。人任せが日本人の悪いクセだというなら、私が『木曜日』を創刊するべきなのだろうか。(2006/8/19)


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