子どもの立場なら

 中3の社会は公民を勉強しているらしい。授業の前や後に職員室で勉強する生徒がいて、社会の先生と話をしているのを時々聞く。
 授業前に早く来て問題を解いていた生徒が「イケンて何〜?わからん」とか言うので、「憲法に違反していることでしょ?ちょうどきょうの新聞に載ってたよ。家に帰って読んでごらん」と答えた。違憲判決が出ること自体が滅多にないし、いいチャンスじゃない。「新聞見てもよくわからん」と言うので「明日塾に持っておいで。教えてあげる」と言うと「新聞(朝日新聞を取っているらしい)を持ってくるのは恥ずかしい」と言う。テストや成績を見られるのは平気でも、自分の家の新聞を持ってくるのは恥ずかしいのかな。ちょっと不思議。
 授業後に、別の生徒がまた職員室で勉強していた。集中して勉強してほしいのにすぐ雑談に走りたがる。安倍総理誕生と社会で習っている公民の中身が重なっているのか、そのへんの話題になった。いつもしつこく数学の質問をする子(ほめてるんですよ)が聞いてきた。
 「ねえ、憲法って変わるの?」
 「わかんない。でも安倍首相は憲法を変えたいって言ってるから、そうなるかもしれんね。5年以内に変えたいとか言ってたね」
 「徴兵制になるの?」
 「オレが憲法つくるわけじゃないから知らん。そうなるかもしれないね」
 (実際には徴兵制になる可能性は小さいという意見も多いが、私には判断できないし、徴兵制だろうが志願制だろうが軍隊の本質には変わりなかろう)
 煮え切らない私の答を聞いていた別の子が「え〜、そんなのやだ。憲法変えたらダメだね」と言った。
 すると近くにいた別の先生が、
 「でも今の憲法だと、敵が攻めてきたとき攻め返せないだろ。北朝鮮からミサイルが飛んできてもいいのか?」
 「それでもやだ。攻められてもいい。戦争はやだ。憲法変えたらいかーん」
 さらに別の先生が、
 「お前はそれでいいかもしれんけど、自分の家族や子どもが殺されてもいいのか?それでもいいって言うなら、もう何にも言わんけど」
 「私はそれでもいい。戦争はいかん」
 生徒の強情に教師が押し切られたようなこのやりとりを、私は途中から黙って聞いていた。彼女の言い分に論理がなくても、今の子どもたちにとってこの感情は自然なものかもしれない、と思った。
 戦争にならなくても徴兵制にならなくても、憲法が変わり軍隊が「公認」され、軍隊の論理が日常生活に入り込んでくるようになれば、私たちの生活は大きく変わるだろう。その影響を最も大きく受けるのは、我々"年寄り"ではなく、これからオトナになっていくこの子たちだ。私が兵隊にとられる可能性は(一応病人だし)そんなにないだろうが、だからといって若い人たちが戦争に巻き込まれるような世の中にしてもいいのか。北朝鮮が攻めてくるかもしれないというのなら、それを防ぐためになぜ全力で外交の駆け引きをしないのか。お金をソンしようがメンツがつぶれようが国益を損なおうがいいではないか(そもそも国益とは一部の人間の私益にすぎない)。最も大切なのは、弱い者や子どもが苦しむ戦争を防ぐことではないのか。それ以上に大切なことが、子どもにとってあるだろうか。教師に言い返した彼女は、直感的にそう思ったのではないだろうか。
 戦争を止められない、戦争を否定しない憲法をつくろうとしている私たちオトナは、結局子どもを愛していないのだ。若い人の未来を犠牲にして、自分たちだけが余生を安全に生きていきたいのだ。そうでないならなぜ自らが今すぐ、「北朝鮮」から子どもたちを守る行動をしないのか。なぜ自らが兵になって、テロリストになってでも「金正日を殺し」に行かないのか。
 命を賭ける気のないオトナが子どもたちを戦場に送り出すような世の中にすることほど、子どもへの「虐待」はあるまい。教え子を再び戦場に送るなというかつてのメッセージは、自分たちの利益のために若者を犠牲にすることの卑怯さを恥じた言葉なのだ。この言葉に反対する者は、まず自らが命を賭けてみるがいい。きれいごとはいらない。今すぐ「国のために命を捨て」ればいい。軍隊を支持しながら自ら行動しない人間を、私は信用できない。(2006/9/28)


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