戦争体験を聞く
お誘いを受け、「戦争体験を語り継ぐ会」に参加した。主催は堅粕九条の会、戦争体験を語り継ぐ会。
家から自転車で10分くらい、中学校に隣接してある公民館に行くと、お年の方がたくさん集まっていた(失礼?若い方もいました) 予定より少し遅れて始まった。城南区在住のKさん(女性)のお話。こういう場でお話しされるのは初めてだそうだ。
- 11才の時満州から引き揚げてきた。
- 「国から捨てられた」という感情を今でも引きずっている。
- 小学校の時は軍国教育だった。音楽でドレミ〜をハニホ〜で言い換えたり、気合いを入れるために天突き運動(右手を突き上げる)をしたり、教育勅語や代々の天皇の名前を暗唱させられた。肉弾三勇士の話を聞かされたのを覚えている。修身は「天皇のための時間」だった。
- 体操の授業ではわら人形に方眼を投げる練習をした。防空演習では手当の仕方(三角巾、副木のあて方など)を習った。慰問袋に絵や作文を入れて兵士に贈った。千人針も刺した。九九を一生懸命覚えたことが印象的だった。春になりグランドの土が融け始めると、穴を掘りヒマを植えた(ひまし油をとるため)
- 中国の子と接するのを禁じられていたため、中国語は話せない。(もったいなかった、というニュアンスに聞こえた)
- 父親は満州鉄道の社員で、社宅に住んでいた。敗戦後すぐ家の周囲を鉄条網で囲い、自警団をつくり家を守ろうとした。軍隊もおらず他に誰も守ってくれなかった。
- ある夜両親が、家族の人数分の赤い薬包紙に青酸カリを包んでいた。自決用のものだった。それを見て「私は飲まない」と決意した。
- 日本人が集まる奉天に移動。露店でいなり寿司、チェンピン(肉入りまんじゅう)、粟餅などを売って生活した。満州東北部から奉天に逃げてきた人がよく行き倒れになっていた。死体をいっぱいに積んだ馬車をよく見た。おばあちゃんが「よく見ておきなさい、ここで死んだらああなるよ。内地に行ってから死になさい」と言っていた。父親が「中国人にステッキで殴られた」と言って泣きながら帰ってきたことがあった。
- 奉天で1年半過ごした後、女子どもで団体をつくり帰国。男性の多くは徴用されていた。自分は7人兄弟の一番上で、一番下の弟と3才の妹は栄養失調で足が立たず上の兄弟がおぶって運び、あとは祖父の遺骨を含む荷物をとにかくみんなで運んだ。船に乗るとき、はぐれないように母親が子どもを大声で呼ぶのが印象的だった。今のアフガニスタンの難民と同じ。軍隊や大会社の人は荷物を全部持って先に帰っていたのに……
- 船の中では食べるものがなかった。ヒジキと塩と少しだけの米を1日に2〜3回食べていた。ひもじいときは「リンゴの唄」をよく歌っていた。
- 帰国後佐世保で検疫を受け、全身をDDTで消毒された。シラミだらけだった。その後博多に上陸。博多も空襲で焼け跡になっており、何も残っていなかった。
- 戦争は許せない。「駆けつけ警護」発言の佐藤議員も許せない。戦後庶民が極貧になったのも戦争のせいだ。
この後村井さんという弁護士のお話があった。憲法改定の見通しについて。
- 世間では選挙結果から「憲法改定が遠のいた」という意見が多いが、むしろこの選挙で憲法改定は「近づいた」と言える。民主党は基本的に改憲路線であり、今回の選挙では政策として出さなかっただけ(選挙で勝つことを優先したので)。日経・読売などのマスコミが民主党を揺さぶってくることが考えられる。さらに経団連は9条改憲を明言し、武器輸出解禁も要求している。企業からお金をもらっている民主党が逆らえるか?
- 鳩山氏(自民?)は「今国民投票をすれば、9条改憲反対の人の方が投票率が高いだろう。しかし総選挙と一緒に国民投票をすれば変えられる」と言っていた。
- 保岡氏(自民)「テポドン一発でどうにでもなる」
- 周辺事態法制定の時も、北朝鮮の不審船事件が起きた途端に法案がすんなり通った。もともと北朝鮮の船は"いつも"通っているので、あのときだけ「不審船」がいたわけではない。つまり法案を通すために不審船を利用して事件を「起こした」に過ぎない。当時の野中幹事長は「あの時は天の助けだった」と言っていた。
- 9条改憲反対の意見は増えている。新聞では読売、サンケイ、もう1つ(北陸の地方紙?)のみが改憲に賛成している。しかし実際に憲法改定の作業が始まれば、経団連から憲法改定賛成のコマーシャルが大量に出るだろう。今から3年間、憲法を変えるための準備をしようとしているのだ。
- 9条を変えて儲けたいと思っているのは、実際にはトヨタや三菱など一握りの大企業にすぎない。中国と合併している企業などは反対している。大企業でも、9条があった方が経済活動がしやすいという人もいる。イラクの人は「アメリカと違って日本の企業とは安心して取り引きができる。アメリカは軍隊を持っているから」と言っていた。
- 9条の会が広がったのは、呼びかけ人のせいではない(それほど呼びかけ人には"人気"はない)。9条を支持しようという基盤があったからだ。
- 憲法改定案が実際に出てくる3年後まで、「9条の会」を持続しながら広げなければならない。息の長い活動が必要だ。
質疑応答の時間があったので、いつものように聞いてみた;
「軍隊を持たない場合、いざ攻められたら殺されるしかない、という意見がありますが、そういう意見に対してどう答えますか?」
村井さんが答えられた。
「そういう人には『どこの国が攻めてくると思うのですか?』と聞きます。北朝鮮が攻めてくる可能性は事実上ないと、日本政府が認めています。現実問題として日本をどこかの国が攻めることは不可能です。
次にもし他国の軍隊に備えて軍隊を持とうとすれば、莫大なお金がかかります。日本の軍事費は4兆数千億円、福祉予算より多いのです。これがもっと拡大すれば、私たちの生活はどうなるのですか? きれいごとではなく、生活のために9条改憲に反対するのです」
最初に話されたKさんは、
「軍隊は私たちを守りません。軍隊を持っても私たちが平和になるわけではないと思います」と言われた。
言われていることはよくわかる。私も議論になったらそういう趣旨のことを言うかもしれない。しかし本音を言えば、私は
日本人は殺されても仕方がないのではないかと思っている。中国や朝鮮の人たちをあれだけ殺しておいて、そのことを「戦争だから仕方がない」とか「そんな事実はない」とか「自国の歴史をそんな風にいうのは自虐的だ」などという国の人間は、殺されても仕方がないのではないか。殺されたくなかったらそのような本当の意味での自虐的・反日的意見にどう対するかを考えるべきではないのか。そう言ってみたかったが、やはり勇気がなかった。
気になったのは、
前と同じように若い人が少なかったことだ。Kさんと同世代の人が多く、20名ほどの中で私より若く見えたのは3人だけだった。戦争体験は言葉だけではなく、「感情」で伝えるしかないと思う。たとえそれができても、Kさんの思いを他人が完全に引き継ぐことは難しいだろう。Kさんの思いを若い人が受け止める方法はあるのだろうか。
私は「過去のことを語り継ぐ」のではなく「現在と未来のために過去を学ぶ」という考え方がいいと思う。若い人の現在と未来に、Kさんの過去をあてはめるのだ。国から捨てられたという意味では、Kさんも中学校の落ちこぼされも同じだ。勉強ができずに苦しんでいる私の生徒の未来は、これから軍隊を持つ国によってどうされるかわかったものでない。それは本質的には、Kさんの悲劇と同じものだ。権力が戦争のために庶民の生活を破壊しようとするとき、実際にどうなるのか。そのことを現在と過去をつなぎ合わせることで、若い人に訴えられるのではないか。
私に何かができるとしたら、そのような「作戦」を立てることなのだろうか。かなり荷が重いが……(2007/9/13)
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