嵐の中のみじめなできごと
週に4回カウンセリングに行っているのだが、話しているうちに感情が高ぶってしまうことがある。
この間カウンセリングでずいぶん「怒り」を出して、どうしても抑えられなくなってしまった。
カウンセリングが終わってそのまま仕事に行くのだが、駅前の駐輪場に自転車を入れるのに、イライラして強引に自転車を突っ込んだら、隣の自転車のハンドルが曲がってしまった(半ば八つ当たり)。
どんどんイライラが募るのに任せて力ずくでハンドルを直そうとしたら、やさしそうな駐輪場の管理員さん(おじいちゃん)が「私がやりますよ〜」と声をかけてきた。
もうその時は感情がコントロールできない状態で、管理員さんの声を無視して自分で直そうとした。管理員さんは「私がやりますからいいですよ〜」と何回も言っていた。
それでも管理員さんを無視してなんとか直そうとしていると、少し向こうから怒声が聞こえた。気がついて見ると、見るからにヤンキーの兄ちゃん数人が、車の窓からこっちに向かって怒鳴っていた。
「何してんねん、ちゃんと言うこと聞かんかい!」
「いい年して何しとるんや!」
「お前のお父ちゃんやったらどうするんや!」
一瞬ケンカしたろうかと思ったが、ここでいざこざが起こったら仕事に行けなくなる。管理員さんに迷惑をかけているのもその通り(……ほっといてくれたら何もなかったのだけど)。
管理員さんに小さな声で「すみません」と言ってあやまると、おじいちゃんは申し訳ないほど恐縮して帽子をとり「すみません」とおっしゃった。こちらの方がよほど申し訳ないのに。
一種異様な感情の嵐に飲まれたまま塾に行き、中3の授業に入った。授業そのものはなんとかうまくいったのだが、あるクラスで生徒が「いじめ」にあっているのを見たら、怒りの感情が収まらなくなった。
いじめた生徒、傍観していた生徒に向かって罵倒しまくり、授業後の補習は生徒に向かって怒りまくりになった。毎年こんなことがあるのだが、今回は駐輪場のこともあって怒りが全く収まらず、自分でも不思議なくらい生徒を叱りまくった。
帰ってからも感情が収まらず、パキシルを多めに飲んでなんとか寝た。
翌日は12時に塾に行き、生徒の質問につきあってから授業3コマをこなした。昨日ほどひどい状態ではなく大丈夫かなと思っていた。
授業後の補習を引っ張って3時間を超えるころ、薬の副作用か体の震えが止まらなくなった。手も口もうまく動かない。
補習をやめようかと思ったが、やっと生徒が乗ってきたところだし、やる気になっている生徒を帰したくなかった。ただ生徒と一緒にいたかったのかもしれないけど。
上司が見かねて生徒を帰そうとするのを強引に止めて、ふるえる体で休みながら補習を続けた。生徒も気がついて心配していたようだが、こちらの異様な雰囲気が伝わったのか真剣に勉強してくれた。
しまいに上司が怒って「生徒を帰らせてください!」と言ったので、それで終わり。生徒を帰らせた。険悪な雰囲気のまま帰宅。(……クビになるかもしれません)
自分の病気の正体が何なのか、未だに自分でもよくわからないのだが、他人に説明するときは「ワーカホリックです」ということが多い。
自分の中にある形容しがたい激しい感情、病的かもしれない怒りや憎しみを癒すには、休養でも治療でもなく「子どもと一緒にいること」しか見つけられないのだ。体が少しくらいふるえようがしんどかろうが、子どもが自分を頼りながら真剣に勉強に取り組んでくれることが、自分にとっての唯一の支えになっているのだ。
……それを「病気」というのかどうか、正確にはわからない。しかし今までにそれで何回も働き過ぎで体をこわしたことも、精神的に自分自身を支える力がない(自殺願望がやまない)ことも、20年近く医者にかかってもその状態から抜け出せないことも、私にとっては事実だ。
一番ショックだったのは、管理員さんを邪険に扱いながら、ヤンキーの「怖さ」におびえてしまったことだ。自分は弱い者いじめをしている、強い者の言うことだけを聞いてしまっている、自分の中に管理員さん(のような人)に対する偏見がむき出しで表れている、卑怯者、卑怯者、という思いが頭の中に充満して、ホームで電車に飛びこもうかと真剣に考えた。
ヤンキーに言われた
「(管理員さんが)お前のお父ちゃんやったらどうするんや!」
という言葉に対して、内心で
「自分のお父ちゃんでもおんなじようにするで。父親が憎い気持ちなんて、お前らにはわからんやろ」
と言い返していたことも、予想はできたがショックだった。親に対する強い憎しみ、義母に対する殺したいほどの恨み、その裏側にある親に甘えたい気持ちが見透かされたような気がして、動揺した。
本当にこんな自分が、子どもを教える仕事をしていていいのだろうか。
感情を抑えられない「病気」、関係ない他人や子どもにとばっちりを食わせてしまう自分、そのような人間は仕事などやめて、治療に専念するべきではないのか。
しかし今まで、数十人の医者やカウンセラーにかかり、かれこれ数百万のお金を使ってもよくなる気配のない自分が仕事から離れても、経済的に困窮する以外の見通しを持つことができない。食うためには働くしかないのだ。
教師を辞めるべきなのだろうか。
結局上司が気を遣ってくださって無事に仕事を続けられることになったが、問題が解決したわけではない。mixiで色々な方からコメントをいただき励ましてもらったが、ありがたいのに返事すら書けない。心が閉じてしまうと誰の言葉も本当には響かなくなってしまうのは、おそらく私だけではないだろうが、どうしても「理解されない苛立ち」が先に立つことを止められない。
……きっと私は誰かに「完全に理解され共感してもらう」ことを期待しているのだが、同時にそれが不可能なこともわかっているのだ。人間は突きつめればみんな孤独だし、別の面から見れば本当に孤独な人間などいない(存在し得ない)。誰でもその両面の間のどこかで生きているのだから、私だって孤独でない自分をもっと大切にすることができそうなものだ。そんな力がつく日は、……くるのだろうか。(2007/10/24)
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