鶴への恩返し

 (2008年4月1日)
 30日には高2(次の高3)の子たちの同窓会に行った。
 塾がなくなる記念に集まろうというのもよくわからない企画だが、2年ぶりに集まって騒ぐのもいいかなと思って、18日の中3の時と同じ山奥の国道まで歩いていった。
 小雨の降る中、ウエスト(焼き肉屋)にはもう随分生徒が集まっていた。私の他に国語の先生が来てくださって、だいたいそろったところで店に入る。
 大座敷いっぱいに高校生が座ると迫力満点だ。当時の生徒27人中23人が集まった。いくら焼き肉食べ放題といってもこの人数はなかなかすごい。入試直後の中3よりたくさん集まるとは思わなかった。
 相変わらず胃の調子が悪いので肉はほとんど食べず、生徒のところにあちこちいって話した。2年間に見違えるようになって、誰だかすぐにはわからない女の子もいた。みんなとっても元気だ。やはり食べ物の力か?
 食べ終わってから向かいのボウリング場に行き、ボウリングやらゲームやらバッティングセンターやらカラオケやらで盛り上がった。4時間くらい過ごして、またもヨロヨロになって駅まで30分歩いて帰った。

 白状すれば、私はボウリングやカラオケやゲームには全く興味がない。やっていても全く楽しめない。
 随分前に社員旅行で行ったディズニーランドでも、どこにも行く気になれなくて、1人でどこかでコーヒーを飲んでいた。この間行ったハウステンボスでも、歩けば歩くほど胃が痛くなった。
 きわめて主観的に書けば、私はいつでも"病人"なので、遊ぶどころではない。遊ぶヒマがあったら休むか薬を飲むか、仕事をして心の痛みを忘れたい。
 やるべきことをやっていないという後ろめたさも常にある。どこかに行くならせめて、自分の痛みを受け止めてくれそうな「自然」と向き合いたい。

 それでもこの集まりは、私にとって休息になった。子どもと会えたからだ。
 自分が関わった子どもたちが元気でいてくれるだけで、力が抜けるような安心感があった。福岡に来て初めて教えたこの子たちには、こちらも勝手がわからず随分あたったりしたが、私に対して恨みがましいことを言う子はいなかった(ジュースだと言って焼き肉のタレを飲ませられたが)。子どもは本来みんなやさしいのだ。
 この子たちをこれから教えることはない、もう自分は役に立たない、でもみんなが元気なら大丈夫、もういいや、という気持ちになった。私が医者通いしていることを知っている何人かが「大丈夫?ムリしないで」と言ってくれるだけで、泣きそうになった。
 ボウリングをするというより、ただ子どもたちの中に座っていたかった。今ここで死ねたら本当に幸せかもしれない、とも思った。

 ……こんな発想をする人間を教師とは呼ばないのだろうが、私は鶴の恩返しを気取っているのだ。
 自分の体と命を削ってでも子どもの役に立てば、いつか子どもが自分の病気に気づいてくれるかもしれない。自分のことを思ってくれるかもしれない。密かにそう思い続けてきた。
 それは本質的にオトナの態度ではない。おそらく私の精神年齢はせいぜい10才くらいで止まっているので、こんなふうになっているのだ。
 そのことが私に「他の教師にはない能力」を与えている面もあるだろう。しかしやはり私には、自分が教師ではない何者かになってしまっているような気がしてならない。

 同窓会の機会などほとんどない塾講師にとって、教え子とこんなふうに会えるのは幸せなことだと思う。
 ……えこひいきであることを覚悟して言えば、松蔭のあの中1Cの人たちとだけは、もう1度会いたい。自分が一番もがき苦しみ、ひとりよがりでも必死に取り組んだあのクラスの人たちにだけは、もう1度会って、みんなにとってあの1年間が何だったのか、自分のしたことに意味があったのか、どうしても聞いてみたい。
 自分の生きてきた意味は、自分の中にはどす黒い闇のようにしか残っていない。それがいいことだとは思わないけれど、自分の意志で残してきた足跡は、他人の中にしか残っていない。私のことなどお構いなしに遊びまくっていた高校生の中にさえ、私と関わった痕跡は残っていたのだ。そのことがわかっただけで、みんなと会えてよかったと思えた。
 ……これからカウンセリングの連続、そして新しい仕事が待っている。
 とにかく前を向いて、生きていくのだ。13年前のあの1年に決着を着けるまで、まだ消えるわけにはいかない。(2008/4/4)


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