お金と名前だけ

 カウンセリングはここのところまた行き詰まってしまっているのだが、とにかく毎週通っている。
 帰りに気が向いて警固公園の方に行ったら、「9条の会」の集会をやっていた。うちにもチラシが入っていたのだが忘れてしまっていた。

 いつかの反戦集会と同じように、年配の方々が中心で100人くらい舞台の前で座っていた。私が行ったときにはステージでギターのお兄さんが歌っていた。この集会に来たのかどうかわからない、公園で一休みしている親子連れやカップルが、少し離れたところにたくさん座っていた。公安らしきスーツの人も2人ほど。
 私は疲れていたので歌もろくに聞かず、まっすぐ売店の並ぶテントに行き、被爆者記録と戦時の朝鮮人抑圧の記録を買い、お腹が空いていたのでおいなりさんと水餃子を買って食べ、さらに9条ペンダント(900円!)と韓国のじゃがいも麺(これは本当においしそう)を買い、署名を3つ書いてからその場を後にした。

 私と同年代くらいの人が「福岡大空襲」の歌を歌っておられたが、もはや昔の被害を語って戦争に反対する時代ではないというのが、私の率直な気持ちだ。
 もちろん戦争の被害者は今もいるし、補償が必要な問題もある。それを無視していいとは全く思わないが、もし歴史に何かを学ぶなら、戦争の被害よりはむしろ「加害者になることを肯定する心理」ではないかと思えてならない。
 自分の生活が危うくなったら人を殺してもかまわない、自分の国の安全のためなら他国の人が死んでもしかたない、むしろ気にくわない国の人間の命より自分たちの利益の方が大切だ、という考え方が、最終的に戦争を進めてしまったのではないかと思う。

 それは今もこの国に残っている思想で、その思想と対決し乗り越える方向を提示しない限り、若い人が戦争に本気で反対しようと考えるのは難しいような気がする。
 陳腐な言い方をすれば「色々な立場や考え方の人たちが、お互いを尊重しながら生きていけるか」ということだ。
 それは某首相の言う「友愛」のような甘ったるいものではないだろう。お互いを尊重することが自分の利益になるとは限らない以上、それはたとえば競争原理に反するし、もっと言えば資本主義にすら反するかもしれない。
 しかし結局戦争を防ぐためには、「自分も他人も大事」という考え方を徹底するしかないと思える。政治的な場面でもそれは同じだろう。その思想をどうやって具体化し実行していくかが、これからの平和運動のカギになると考えるのだが、どうなのだろうか。

 学生時代に反原発の勉強会に入っていたことがある。
 原発反対運動をしている石川県の漁協から魚を買いつけて京都で売るという「産直」をしていたのだが、ある先輩がいつも大量に魚を買ってくれた。
 彼は他のことに忙しくて直接反原発運動に参加するわけではないし、産直という形の運動がいいかどうかにも懐疑的だったようだ。アンケートでなぜ魚を買ってくれるのかという質問に対して「○○君(勉強会のリーダー)への友情」と書いてあったのには笑えた。

 今の私がしているのは、その先輩と同じことのような気がした。
 今日の集会に集まっている人たちの気持ちは、正直なところ私にはわからない。集会が無意味だとは思わないが、戦略として考えればこの活動に展望があるとも思わない。戦争の悲惨さを訴えるだけで戦争に反対できるとも思わない。
 そんな私にできるのは、署名を書いてカンパ代わりにものを買うことだ。どうせ貧乏人同志だからたいしたことはないが、そういう活動をしている人の「気持ち」は大切にしなければと思うし、今の私にはそれ以上のことはできない。

 教えている高校生に戦争の話をすることも、こうやってここやHPにささやかな文章を書くことも、ムダではないと思いたいが、やはり私はあまりにも非力で勇気がない。病人だからしかたないのか?(2009/11/4)


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