ただそばにいるだけで

 よく覚えているデートは、恋人相手でないものばかりだ。

 26才のとき ひとり暮らしが長くなり、精神的につぶれてしまっていて、精神安定剤を飲み始めていた。夜になるとあちこちに電話をして気を紛らわせていた。ずいぶんたくさんの人に迷惑をかけていた。
 その頃 同じように行き詰まっている2才下の女友だちがいて、京都と奈良でよく長電話をしていた。向こうは男女関係でトラブっているようだった。

 ある日の夜中、その子から電話がかかってきた。
 「もうだめだ。生きていけない」
 何があったのかわからなかったが、反射的に言った。
 「朝一番で行くから。死んだらあかん。絶対待っとき!」
 始発の近鉄に乗って西大寺に行き、地図を見ながら彼女のアパートを探し出し、木の扉をあけると、寝巻姿の彼女がいた。

 何も言えずに見つめ合っているうちに、涙が出てきた。

 どんなにたくさんグチを言い合っても、自分には彼女の苦しみは理解できないし、彼女にも自分のしんどさはわからなかった。他人のしんどさなんて簡単にわかるものではないと、今でも思う。
 それでも、その一瞬だけは「感情が通じ合えた」ような気がした。鏡を見ているようだった。今まで生きてきた中で、あんなに自分が許されたような気がしたことはない。親とも妻とも生徒とも、そんな感情は持てなかった。

 ほとんど話さずにその部屋でしばらく過ごし、着替えた彼女とかかりつけの神経科まで付き添い、薬をもらってきた彼女と1日奈良の商店街を歩いた。
 彼女は少し元気になり、何でもないバカ話を機関銃のように続けた。それまでにあったろうきつい話はお互いに一言も出さなかった。しんどいことを何も言わなくても、しんどさから逃れようとする彼女の気持ちがわかったような気がして、とにかくただそばにいようと思った。
 喫茶店に入って「食べてみなさいよ」と言われて、生まれて初めてチャコレートサンデーを食べた。板東英二主演のよくわからない映画を観たが、彼女は自分の父親を思ったのか(父親との問題があったらしい)、途中からずっと泣いていた。

 それからしばらくして、こっちが薬の飲み過ぎでつぶれてしまい、住みかも仕事場も変わって彼女とは疎遠になった。特別会いたいとも思わなかった。3年後にもらった長い手紙が、彼女との最後の音信だった。
 恋愛感情があったわけでもないそんな相手と過ごした20年前の1日が、自分にとっては今でも「人生で一番ラクだった日」になってしまっているのは、いったい何なのだろうか。


 ……そして昨日、いつかの彼女と同じようにしょげている元教え子を励まそうと思った。
 映画がいいかと思ってマイミクさんにお勧めを聞いたのだが、外に行きたいと言うので、自分の好きな海に連れていった(○○さんゴメンなさい)。
 最初は彼女がたくさんしゃべっていたのだが、小雨の中海岸に座って海の向こうに釜山を探し始めた頃、私は自分の昔を語り始めた。今でも殺したいと思っている義母のこと、今まで出会った病を持った人たち、心を治す可能性のある場所………
 自分がたくさんしゃべるのは本当はイヤだ。話がうまくもないし相手を楽しませるような話なんて(本当は)何一つ知らないからだ。けれど彼女に対しては、違う思いがあった。
 子どもの頃の心の傷はみんなそれぞれに違うものだし、私がこうなっているからと言って彼女もそうなるというものではない。彼女はいつか本当に元気になって歩いていけるのかもしれないし、そうなってほしい。
……しかし医者でない私にも、今の彼女の中の心の闇が簡単には晴れないことは、わかる。4年間見続けてきたこの子の将来のために私が最後にできるのは、彼女が自分のようにならないために、自分をさらけ出すこと、自分の知っていることを伝えることだ。そう思った。

 本当は20年前のあの時のように、人が人を支えるのに言葉なんていらないように思える。相手の心に近づくためには、一緒に過ごした時間の重さ、そして何も言わなくてもそばにいるだけで通じ合える何か、それだけでいいはずなのだ。昨日も本当は、そうしたかった。伝えたいことがあるとしても、本当に相手がしんどい時にはそんなことは後回しにして、ただそばにいるだけでよかったはずなのに。
 ……願わくばあの子が、自分なりに大切に思い続けてきた一番心配な生徒が、本当の心の強さを手に入れて、幸せになっていってほしい。できそこないの教師には、そう願う資格すらないだろうか。
 失敗と後悔だらけの結末になったこの1年が終わって、本当に教える仕事を続けていいのかどうか、迷っている。教える力がまだあるとしても、生徒とまっすぐに向きあってやっていくだけのパワーが、本当に今の自分にあるのだろうか。(2010/3/16)


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