授業のしかたを考える

 もうすぐ始まる新しい塾での授業のしかたを、ずっと考えている。
 学年も学力もバラバラの生徒を一度に教えるので、学校のような一斉授業ではうまくいかない面があるだろう。かといってみんながバラバラの教材をするのでは、ひとりあたりに教える時間が短くなって能率が悪すぎる(大阪で5人相手にこれをやったことがあるが、こちらも向こうもあまり充実感がなかった)。
 折衷案として「同じ教材・進度で進むいくつかのグループに分けて、グループごとに教える」という形を思いついたが、実際にそういう形でやったことがないし、何しろまだ生徒と会ったこともないので、うまくいくかどうか全くわからない。
 塾長と相談してある程度結論は出たが、あまりこちらから教材ややり方を一方的に押しつけないで、できるだけ生徒と相談しながらやっていった方がいいような気もしている。
 単に知識や技術を教えるだけでなく、目標の立て方、勉強のしかた、クラスの中でのうまい協力のしかたなど、一生を通じて役に立ちそうなことも身につけていってもらえたら……と思う。

 小学生の頃に読んだ「次郎物語」の、社会人向けの塾での朝倉先生の言葉を、ふと思い出した;

 「……だれかにきめてもらった組織と、自分たちでその必要を感じてつくった組織とは、全然意味がちがうからね。君らは、君ら自身の幾時間かの体験によって、室長の必要を感じ、その制度を作り、その人選をすることになった。そうしてできあがった室長は、よかれあしかれ、君ら自身のものだ。したがって室長の言動に対しては君ら自身が責任を負わなければならない。そういったぐあいに、すべてを自分のものにしていくところに、おたがいに生活設計の意義があるんだ」
 「強制されると、どんな不合理なことにでも盲従する。お互いの相談に任されると、なまけられるだけなまける工夫をする。もしそういうことが人間にとってあたりまえのことだとして許されるとすると、いったい人間の自主性とか良心とかいうものは、どういう意味をもつことになるんだ。いや、いつになったら、人間はおたがいに信頼のできる共同生活を営むことができるようになるんだ。」
 「私は、君らを、良心をもった自主的な人間としてここに迎えた。だから、かりに君ら自身が、君らを機械のように取りあつかってくれとか、犬猫のようにならしてくれとか、私に要求したとしても、私には絶対にそれができない。私は、あくまで、君らが人間であることを信じ、君らに人間としての行動を期待するよりほかはないのだ。むろん私も、人間の世の中に、強制の必要が全然ないとは思っていない。弱い人間にとっては、やはりそれが必要なこともあるだろう。時には、それが弱い人間を救う唯一の方法である場合さえあるのだ。それは私にもよくわかっている。しかし、私は、君らがこの塾堂の生活にもたえないほど弱い人間であるとは思っていないし、また思いたくもない。だから、私は、君らが何かの強制力にたよるまえに、まず君ら自身の良心にたより、人間として、君らの最善をつくしてもらいたいと思っているんだ。君らが、ほんとうにその気になりさえすれば、少なくとも、この塾堂の生活ぐらいは、何の強制もなしに運営していけるだろうと、私は信じている。君ら自身も、人間であるからには、そのぐらいの自信は持っていてもいいだろう。いや、持っていなければならないはずなのだ。」
 (下村湖人著「次郎物語」第五巻より。ネットで読めるのはとっても便利)

 もう30年以上前に読んだこんな文章を、ぼんやりとでも覚えていたのは不思議だ。本の威力とはこういうものだろうか(そう言えば下村湖人は佐賀県の人なので、福岡にいるとオーラが来るのかも?)。
 しかしもっと不思議なのは、昔はこんな考えで授業をつくっていこうとは思いもしなかったのに、ここ数年「強制することの意味」を考えるにつけ、この朝倉先生の言葉がよみがえってくるようになったことだ。年をとるとわかることもあるというのは、こういうことなのかな。
 もう1つ、たまたま読んでいたデューイ「学校と社会」の中の文章;

 「社会が自らのためになしとげた一切のものは、学校のはたらきをとおして、あげてその未来の成員の手にゆだねられる。社会は、自らにかんするすべてのよりよき思想を、このようにして未来の事故にひらかれている新たな可能性をとおして実現しようと望む。
 ……つまり、おおざっぱに「新教育」とよばれるものを、ここでひとつ、社会の寄り大きな変革に照らして考えてみていただきたいということである。われわれはこの「新教育」を社会の諸事象の一般的進行とむすびつけうるであろうか。もしむすびつけうるとすれば、「新教育」は、その孤立的性格をうしない、特定の生徒をあつかっている教師たちの角に発明的な精神からのみ生まれてくるようなものではなくなるであろう。」
 (デューイ「学校と社会」第一章)

 私はプラグマティズムに必ずしも共感するわけではないが、教師の創意工夫が「孤立」したものでなくなるためには、その教育活動が「社会の諸事象の一般的進行」と結びつけうるものでなくてはならない、という意見には同意できる。教師によるあらゆる創意工夫が本質的な意味を持つためには、そのような視点が必要なのだと思う。
 大げさであることを承知で書けば、授業の進め方を完全に教師(講師)が仕切ってしまうことが、今のこの国の「社会の諸事象」とどのような関わりを持つのか、どのような意味を持つのか、ということまで考えるべきではないか、と思う。

 ……こんなことを言う講師は、上司からすればとんでもないじゃじゃ馬だろう。私はどこの塾でも学校でも多かれ少なかれ「異端」として扱われてきた。
 もちろん現実の中で自分にできることは知れていて、自分の力量が小さい分、回りを振り回すことは逆に小さかったと思う。もしこの先、自分が今よりもっと大きな責任を持って仕事をしていくとしたら、自分が自分自身の「じゃじゃ馬」とうまくやっていかなければならないだろう。おそらく今年のうちに、そんなことが起こるだろう。その時にとにかく、生徒のために何が一番いいかを基準にしてものを考えられるかどうかが、私の勝負になるだろう。(2010/4/6)


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