夏の終わり

(mixiに2010/8/24に書いた文章)

 夏期講習も終わりなんとか一息。
 なんだかんだいって8月はけっこう仕事が入った。10連投して1日休んでから8連投。一番準備のいるクラス授業は8日間だけで、あとは質問会とか個別指導とか家庭教師とか。個別指導はきつくないが、家庭教師も4時間こえたりするのでラクではない。
 授業が3時間を超えるとロレツが回らなくなり、かなりスローペースで話さないといけなくなる。ゆっくりゆっくり、と自分に言い聞かせて教室に行くのだが、授業が始まると一気にテンションが上がってしまって、何を言っているのかわからなくなってしまうこともある。英語の先生から
「先生くらいのテンションで話し続けるのは大変ですね〜〜」
と言っていただいたが、失礼ながらもはやほめ言葉に聞こえない。心と体がつながらないというのはこういうことかと思う。

 一昨日は午前中から塾で個別指導、その後質問会をして、唐人町から博多駅まで自転車で走りJRで宗像へ。前の塾の教え子との会食に1時間出て、その後家庭教師で3時間教え、夜中1時前に帰宅。妻は大阪に帰っていて、久しぶりにひとりの夜をすごした。
 5年前に高校入試を一緒に乗り切った教え子さんももう20才。私を駅まで車で迎えに来てくれた。高速沿いのファミレスはエアコンが壊れていて暑かったが、楽しい時間をすごせた。
 
受験勉強でしんどい思いをしていた男の子もすっかりカッコよくなって、見違えた。
 介護系の専門学校に行っている○君は、自分がおじいちゃんと暮らしていること、認知症になったおじいちゃんがおばあちゃんが亡くなったことがわからずに困ったことを私に話してくれた。こういう経験は福祉の仕事をするために何より必要な「受験勉強」だろう。命を削るようにして働いているこの国の介護職員を彼が志すのは、育ててくれたおじいちゃんやおばあちゃんへの恩返しなのかもしれない。私にはとてもできない。
 もちろん現実はかっこいいことばかりではないが、彼の中のそういう思いがお年寄りのために役だったらいいなあ、本当にそうなってほしいなあ、と思った。

 私のようにあちこち流れ歩いている塾講師が、こんなふうに教え子の成長した姿を見られるのは、本当に幸せなことだ。
 地位とかお金とか、あるいはどの高校に何人合格した(させた)という「実績」にはほとんど興味がないが、関わった子どもたちがどんな生き方をしていくのか、その人たちの中に私と関わった時間がどんな意味を持って残るのか、そのことには興味がある。
 人間をつくるというとんでもない仕事をしている以上、生徒との集まりは私にとって一種の「成績発表」のようなものだ。合格するとは限らなくても、結果を一生見ないで死んでいくよりは、教え子に会える方がましだ。

 ……その後の家庭教師はあまりうまくいかず落ち込んで帰ってきたが、しかし負けるわけにはいかない。教師として子どもと関わっている限り、どんなにボロボロになってもベストを尽くすしかない。(2010/8/24)


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