続ける人、断る人、放り出す人

(mixiの日記より)
 1ヶ月前から仕事が増えて忙しくなった。休みは週1日。今は推薦入試の直前の追い込みにつき合って「予想問題」の切り貼りなどもして、1日おきに徹夜のペースだ。病院に行く暇もない。

 塾で4月から教えていたある生徒さんに「これ以上いても受かる見込みがないので、変わった方がいい」という話をして、やめてもらった。
 色々問題があるにしても、一度引き受けた以上は春まで続けるべきだ、という気持ちもあった。しかし実際に面談になると、「合格したいのならよそに行った方がいい」という、商売としては論外な言葉を感情的にしゃべってしまった。

 そもそも引き受けたのが間違いだったのだろうかとも思うが、最初からこの生徒を引き受けられるかどうかの判断がつくとも思えないし、だからといってこのまま春まで引っ張っても合格の見込みがないのだから、まだ環境を変えたほうが望みがあるだろう、というのが、どうしようもない私のひどい言い訳だ。
 昨日また徹夜をして、彼にさよならの手紙を書いた。

 私は今までに数十人の医者やカウンセラーと会い、私を治してもらえるかどうかを聞き、治療を受けてきた。
 治療者のうちの何人かは、私の話を聞いて「うちではあなたは治せない。よそに行ってください」と言って、断った。 そのときはかなりショックを受けたが、後になって考えてみれば、治せる見込みもないのに引き受けるよりは、最初から断る方が誠実なのだと納得した。
 逆に「うちに来ればなんとかなるでしょう」と言って治療を引き受けてもらっても、実際にはうまくいかないとき、本当にこの治療者でよかったのか、それともこちらの努力が足りないのか、わからないまま行き詰ってしまうことも多かった(今もそうだ)。
 一度引き受けた治療者は私と違って、途中で「やっぱり私には治せません」と言って放り出すことがないので、逆にこちらからサヨナラを言うしかない。あきらめるのがよくないのか(ずっと続けるべきなのか)、治療者(治療法)の選び方がそもそもおかしいのか、それすらよくわからない。
 精神医療と受験勉強を比べるのはおかしいのかもしれないが、できないことは最初からやらない、引き受けたら(結果が出なくても)見捨てずに最後まで引き受ける、という多くの治療者の構え方は、よくも悪くも私にはまねができないなあ、などと思ってしまう。

 それにしても、この年になっても、子どもを教えることはまちがいなく自分にとっての勉強になっている。今年は久しぶりに高校数学・物理・化学を本格的に教え、さらに小論文から英文法、果ては国文法まで面倒を見ている。自分だけではとてもできそうにない勉強でも、相手のためにと思えばなんとかできる。これで相手の成績も伸びればいいのだが、なかなかそういかないというのは悲劇というか喜劇的だ。
 とにかく3月まで体を持たせたい。病院にも行きたいけど、どうなるかわからない。さよならを言った彼が、どうかよい春を迎えられますように。(2010/10/27)


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