春なのに

(mixiの日記より)
 3月いっぱいで唐人町の塾での仕事は終わり。後片づけもなんとか終わった。

 地震の直前あたりから調子が悪くなり、翌日は仕事を休んだ。ニュースを見ているだけで頭がクラクラした。16年前もそうだった。
 原発事故について言いたいことはあるが、ここに書くと誰かを傷つけそうでこわくて書けない。
 地震のことも心配だが、募金しかできない。献血に行ったら30分待たされたあげく「輸血したことがある人はダメです」といって断られた。先に言ってよ。

 塾の高3の国公立大受験は結局3勝2敗でまずまずだったが、祝賀会にはとても出る気になれなかった。受かった子よりも、うまく引っ張れなくて玉砕した(しかも最後は見捨てた)生徒が気になって、顔を合わせる気になれなかった。

 成績とか合否とかよりも、やるべきことをきちんとやってほしい、目標に向かって全力投球してほしいと思ってきた私にとって、この1年はほとんどすべての意味で散々だった。うまく指導できなかった私が悪いのだが、誰も私の期待に応えなかった。授業料のもとをとれた生徒はひとりもいなかったと思う。自分にとっては屈辱だけが残った。やめるのは塾のためにも私のためにも、必然だった。1年間につくった山のようなプリントを片づけながら、そんなことを考えた。

 愛伸ゼミナールがなくなってからのこの3年間、家庭教師でも塾でも、納得できるような教え方・引っぱり方が全くできなかった。病気を背負ったままこれ以上この仕事を続けるのは無理なのだ。

 たしかに高校生の指導には独特の難しさもあるし、福岡だから、昔とは生徒が違うから、自分が年をとったからという要因もあるだろう。しかし今の私には、本気で生徒の気持ちや状況に寄り添って、生徒の今立っているところから一緒に進んでいこうという気力がない。それは頭の中のどこかに、自分のことで精一杯なのに、というひがみのような感情があるからだ。
 大阪にいた頃はそういう部分があってもごまかしながらやってこられたし、あのときの生徒はもっと自分にエネルギーをくれた。年齢の差が生徒との距離をつくり、また福岡の空気にどうしてもなじめない今の私自身のありようが、生徒と信頼関係をつくることを拒絶してしまっている。

 ……思えば1年前、名古屋に帰って義母と会ったことが、自分の中のある感情を呼び覚まし、生徒に対するイライラ、極端に言えば憎しみのようなものを抱かせたように思う。
 生徒には生徒の悩みや苦しみがあるのだが、それでも高校生の頃の自分よりはよほど平穏無事に暮らしているように見える。そういう彼らがサボっていることが、今の私には「よくない」というよりも「許せない」ように感じられる。

 要するに私は義母に対する憎しみを無意識のうちに生徒に向けていたので、そのために1人はお母さんを面談で怒鳴りまくってやめさせ、1人は「この塾にいたら絶対に受からないから予備校に行け」と罵倒し、1人は入試の直前に突き放して教えるのをやめた(当然彼は落ちた)。
 それは無責任なのかもしれないが、まあ生徒の側に原因があるのも、私に彼らをなんとかする力がないのも事実なので、申し訳ないがどう転んでもそういう結末しかなかったのだとは思う。
 問題は結果ではなく、そういう行動をとった私の中の動機だ。20年前に薬を飲み過ぎてパニックを起こしたあの時と、今の感情の状態は似ている。このままだとどこかで糸が切れて、トラブルを起こすかもしれない。そういう火種になりかねない生徒から離れて、とにかく真剣に治療と向きあいたい。

 カウンセリングを再開し、買い込んである精神療法の本を読み、近くのお寺で坐禅をし、生活のパターンも変え、「糸が切れないような」バイトを探し、やっていくしかない。
 生徒と離れるつらさは、以前ほどはない。まともな教師になってきた証拠……ではないのだろうが、これはよい意味にとらえるべきだろう。

 妻は「治して大阪に帰りたい」と言う。病気を治しに来たのだから当たり前だ。
 この1年でやれるだけやってみて、それでダメなら、もう……(2011/4/2)


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