デモと都知事
(mixiの日記より)
今デモをするのがいいのかどうかということは、私も考える。他にすることがあるような気もする。
しかしこの状況で、特に東京の人々が原発に対してどう考えるのかという点から見れば、デモをする人がいるだけまだ東京はましとも言える。
大量の電気を使うために福島の人々にあれだけ迷惑をかけておいて、なお原発からの電気に頼る現状を変えようとしないのであれば、デモなどよりその方が批判されるべきだろう。
本気で原発を肯定するのなら、広瀬隆の言うように東京や大阪や福岡の都心に原発を誘致するべきだ。
原発を推進しながら原発を誘致しない、現状を変える勇気のない甘えた知事が四選される東京の人が、デモを批判する資格を持っているのだろうか。
プルサーマルの「先輩」でもうすぐ35年になる玄海原発を抱える佐賀県やとなりの福岡県では現状維持派の知事が圧勝し、原発の安全点検やプルサーマル中止を訴えた共産党は、福岡では県会議員は誰も当選しなかった。デモなど全く起こらない。
福岡は外見は都会だが、やはり中味は田舎なのだ。東京も大阪もひどいが、「異論」が出てくるだけまだましだ。
デモを批判する人、デモを肯定できない人は結局、今の状況を変えたくないのではないだろうか。
自分さえよければ、自分の人生さえよければ、他のことは本当はどうでもいいと思っているのではないだろうか。
それとも「お上の決めたことには逆らわない(原発推進は自民党の決めた国策)」という封建制度の精神が染みついているのだろうか。
それとも自分にはデモに参加する、または反対の立場のデモを起こす勇気がないので、ひがんでいるのではないだろうか。
原発を他の地域に押しつけておいて、そこからの電気を平気で使っている人は、デモをするかどうかに関係なくみんな無責任なのだ。
自分のことが一番大事で思いがバラバラだから、CMで無理やり「日本はひとつ」とか言わないといけないのだ。ああ言わないと不安な人がいるのだ。
デモに対するブーイングを見ていると、どうしてもそんなふうに思える。
行動している人を行動していない人が批判するのは、ほとんどの場合滑稽なものなのではないだろうか。(2011/4/11)
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