25年目の宿題

 福岡もずいぶん暑くなってきた。今年はなんとかエアコン抜きで過ごしたい。

 4月から2ヶ月あまり、修士論文を書いていた。

 大学院に行っていたのは、もう25年も前のことだ。滋賀県の湖西線沿いの小さな実験所で、琵琶湖の生物の研究(まがい)をしていた。
 22才になったその頃は、京都の嵐山の小さな塾でバイトを始め、京大の合成洗剤勉強会の(一応)部長も務め、廃油のリサイクルのボランティアも京都であり、わたぼうし(チャリティコンサートのキーボード、奈良が本拠地)もまだなんとなく続けていたので、大津に住むわけにはいかなかった。京都駅の近くの、西日の入る安い下宿を選んで引っ越し、そこからあちこちに通った。
 塾のバイトがある日は、夜9時まで塾で働き、自転車で京都駅まで走って湖西線の終電に乗って誰もいない実験所に行き、深夜ラジオを聞きながら顕微鏡と格闘し、朝一番で京都に帰って下宿で寝る、というような生活をしていた。先生からはよく「君はいつここにいるんだ」と言われた。

 大学院に入った頃は、自分が本当に研究者としてやっていくべきなのか、迷っていた時期だった。
 卒論の発表でも「こんな研究に意味があるかどうかわからない」などとほざいて先輩から批判されていた自分にとって、大学院で何をするか決めるのは大変だった。
 京大理学部はよくも悪くも放し飼いなので、上からこれをしろと言われることがない。生きものを見るのは好きだったが、そのことと「国の税金を使って研究をすることの意味」は自分にとっては別物だった。先生や先輩のやっていることを見ていても、憧れを感じなかった。
 それまで大学の内外で、公害問題その他に向き合っていた人たちを見てきた自分にとって、研究者とは違う形で公害(環境)問題に関わるべきではないか、という気持ちがいつもあった。迷いの見えない他の人たちがうらやましかった。

 それでも具体的に何をするかは最初の半年でだいたい決まり、1年目の冬から1年間通してフィールドで調査をしてデータをとった。
 毎月1回、手こぎボートを大きな船で引いてもらって雄琴のヨシ場に行き、水温やpHや酸素をはかってから、あちこちでヨシの茎を切り取ってビニル袋に入れる。冬は凍えるほど寒く、夏はウエットスーツを着ても暑く倒れそうになった。
 3時間ほどで作業を終えて戻り、実験所の近くでまたヨシ茎を苅って終了。それから5日ほどの間に、とってきた数十本のヨシ茎の表面についている生きものを歯ブラシでこすり落としてそこにいる動物を数えた。徹夜続きで目にクマができるほど顕微鏡を見ていた。単純な作業で、ただひたすら体力勝負だったのはまあ卒論と同じで、若かったからできたことだ。

 データは山ほど出てきたが、それをどう料理すればいいのか、私にはわからなかった。
 今まで誰もやったことのないことなのはわかっていたが、だからといって学問として意味があると言えるのか、学問として意味があれば私にとっても意味があると言えるのか、わからなかった。心配してくれた先生方のヒントにのっかって統計で遊んでみたりしたが、文献もろくに読まず知識のない私には、学問の端くれとしてそれをなんとかする力がなかった。

 それはその頃大きくなっていた、わたぼうしへの疑問と重なっていた。
 障がいを持っている人の気持ちがわからない自分が、その人のメッセージを「代理」として伝えられるのか。共感できない歌の伴奏をすることが、作詞をした人のためになるのか。
 大学の学問と障がい者の差別問題、その他社会の中のほとんどすべての問題が、本質的に「同じもの」だとわかり始めていた自分にとって、要するに世の中とどう向き合うのか、自分はどうしたいのかという問いかけに答を出さなければならなかった。
 そのために音楽を選んだ。大学院を2年でやめて音楽を勉強してみよう。自分の音楽、自分の気持ちを一番ストレートに出せる方法を突き詰めてみたい。そう思った。プロになることはできなくても、この世で自分にしか表せない音楽、大学院でもわたぼうしでもできなかった「自分の世界」を見つけられるような気がしていた。
 大学院2年目の冬、わたぼうしをやめることが決まり、最後の大阪コンサートで引退することになってから、私はコンサートの準備に没頭した。最後だけはわだかまりなしに、全力投球したかった。
 修士論文を書かなければならない土壇場になって、私は塾も学校もさぼり、ほとんど奈良にこもりきりになって、楽譜を書いたり練習の段取りを(勝手に)組んだりしていた。コンサートには名古屋の妹も呼び寄せた。昼夜2回公演が終わった後は、ピアノのK子さんと抱き合って泣いた。

 それからの3ヶ月でなんとか2万字ほど文章はつくったが、論文と呼べるようなものではなかった。
 私は教授に「中退扱いにしてくださってもいいです」と言ったが、先生は単位を出してくださった。「努力は認めてあげたいから」。ありがたかったが、やはり私にはどうしてもひっかかりが残った。
 結局修士論文を出さず、だらだら書いた文章と元データを持ったまま、私は研究から離れた。
 そのままにしておいていいとは思っていなかったが、今更ちゃんとした形に書き直せる気もしなかった。考えのまとまらないまま時間だけが流れた。

 今年3月に唐人町の塾をやめて、10日ほど疲れて寝込んでいたが、そのときに「あの論文を何とかしなければ」という思いが浮かんだ。
 当時一番面倒を見てくれた助手の先生に連絡をとり、とにかく書いて出してみろと言われたので、パソコンにデータをあげていじってみることにした。
 あのときほとんどまじめに読まなかった文献(25年前のコピーが残っていた!)を読みながら、論理の流れ、仮説のたて方、考察のまとめ方などを勉強し、ネットで新しい論文を拾い出して検討し、パソコンもソフトも新しく買って、数百のグラフを打ち出して分析を試みた。いらないところを大幅に削り(これで15000字くらいになった)、先生方の論文をまねながら書き直した。少しずつ、面白くなってきた。
 正当な方法ではないのだろうが、自然を科学的に分析すること、理屈であれこれ考えて仮説をたてて検証すること、他人の文献をデータのサポートとして活用すること、これらは25年前にはまったくわからなかった感覚だ。
 長い間入試問題を解いてきた自分の頭が、あの頃よりも理屈で考えることの面白さをわかっているからだと思う。塾の仕事も役に立っているのだ。
 家でパソコンと格闘していて、大学が研究環境として恵まれていることを、つくづく感じた。素人だと1つ読むのに数千円かかる論文も、大学では全部無料で取り寄せられる。あの実験所はお金がある方ではなかったが、やろうと思えば必要な実験はほぼすべてできた。アドバイスをくれる先生や先輩もいた。
 こんなことなら、大学院に入る前に1年くらい人生について悩んでもよかったのだ。中途半端な気持ちのまま大学院に入ってダラダラ過ごすより、本気で何かをしようと思ってから試験を受ければよかった。そんな気持ちにもなった。


 ……かれこれ2ヶ月徹夜続きでやってきてさすがにへばり、文章も21000字を超えてそろそろ限界だし、いつまでもこんな贅沢な生活をするわけにもいかないので、さっき先生にメールで文章と図表とExcelファイルを送った。
 今からさらに添削を重ねて、もしうまくいけば来年あたりに学会誌にのるかもしれない、というところだ。

 自分の中にある自信のなさ、特にここ数年続いている教えることに対する不安、そこから抜け出したい。教師としての自分のあり方を振り返ることも必要だろう。仕事に対する構え方も変えないといけないだろう。
 もうひとつは「ひとつのことを最後まできちんとやり遂げる」ということだ。この年になってこんなことを書くのは十分恥ずかしいが、卒業論文をしっかり書き上げるということが、自分にとっての自信にもつながるような気がしている。

 来月からは働きに出るつもり。塾で勤めるかどうかはわからないが、どうせ暑いのだから昼間外で仕事をする方がいいかなとも思っている。
 もうひとつ宿題があるので、これも7月中にはなんとかしたい。マイミクさんで結婚しそうな人がいるので、お祝いの歌もつくりたい。
 本当はどうしてもある場所で働きたいのだが、当面は無理そうなので、しばらく作戦を考えたい。教える仕事に戻るまでに、自分を磨かないとね。(2011/6/26)


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