名古屋への旅

(mixiの日記より 2010/5)

4月28日

 祖母が亡くなった。義理の母の母親。6人いた祖父母の最後のひとりだ。
 告別式のために、明日朝一番の新幹線で名古屋に行くことにした。出棺にギリギリ間に合うくらいだが、行かないよりはましだろう。
 名古屋に帰るのも義母に会うのも8年ぶりだ。8年前に実家に泊まった時はほとんど会話もせず、なんとか無難にこなした。今回はしゃべらないわけにはいかないだろう。

 カウンセリングで何度か「義母を殺したい。憎くて仕方がない」と話したことはある。
 彼女をどうにかしたからといって自分がよくなるわけではないことは重々わかっているが、今までの自分の中にたまっている言葉にできない感情をぶつける相手がいるとしたら、義母しかいないことも事実だ。

 こんな文章が冗談ですめばいいけど、……やはり自分の中に義母への殺意の破片があることは否定できない。
 もし何かが起こっても、こんなオトナにはならないでという反面教師くらいにはなるだろう。




4月29日

 早朝5時に起き喪服に着替え、歩いて家を出て博多駅へ。6時ののぞみで名古屋へ。乗り過ごすのが怖くて、寝ついてもすぐに目が醒める。9時半に名古屋駅に着き、地下鉄で上社へ、そこからタクシーを飛ばして葬儀場へ。9時半から始まっていた告別式の出棺にギリギリ間にあった。

 義母は喪主で、8年ぶりの姿はさすがに老けていた。お棺の前で泣きはらす姿を見て、17年前の父の葬儀を思い出した。ふるえていた肩を支えるように後ろから手をあてた。
 焼香もできなかったが、おばあちゃんの顔はおだやかで、昔と変わらないように見えた。みんなで車までおばあちゃんを送り出す。

 おばあちゃんはとてもやさしい人で、怒った顔を見たことがない。小さい時に何度か遊びに行き、お世話をしてもらった。最後に会ったのはもう10年以上前だ。数年前から認知症が進み、長い間会話はできなかったらしい。お話しができる間に顔を見に来ればよかった。

 葬儀場から親戚10人ほどがついて火葬場に行き、1時間半ほど待ってから焼けてしまったお骨を拾い、終わり。お坊さんを呼ばなかったので早く終わったのも、父と同じだった。
 みんなでご飯でも食べるのかなと思ったが、結局ここで解散し、妹家族と義母の住む日進の家に初めて行った。

 1階と2階で2世帯になっている木造のしゃれた家。義母はおばあちゃんとここで一緒に暮らすつもりだったのだが、かなわなかった。やたらと大きな犬がいて、義母はヒト相手のように時々犬に話しかける。
 疲れているはずなのに、義母はおばあちゃんの遺品を整理したり部屋を片づけたりと休まない。パワーのかたまりのような人で、こういうときは余計体を動かす。こちらは眠気に勝てず喪服のまま3時間ほど仮眠。

 夜になり義母と妹の家族4人と車で出て、近くの居酒屋で夕食。妹のつれあいさんとは何度か話したことはあるが、この日は酒が入っていたせいかかなり雑談で盛り上がった。義母は小食で残り物をこちらが色々引き受けたのでお腹いっぱいになった。

 2階の妹一家の方で寝ようかとも思ったのだが、子どももいて手狭だし気を遣わせそうな気がしたので、1階の義母の方で布団をもらって、こたつ部屋で1人で寝た。義母は10時前に「もう寝るね」と言って引っ込んでそれきり。こちらはノルマに追われているので問題集を朝方まで解いたが、色々な感情が頭の中をグルグル回って物理をやっている気がしなかった。夜中に部屋を出て、家のあちこちをながめてみた。

 高校を卒業するまで暮らしていた天白の家は、今は人に貸しているらしい。その頃の家具だけが新しい家に引っ越していた。家族4人で食事をしていた机、本棚、ピアノの横に父の遺影。
 父は本の虫で、私が読むかもしれないからと言って「世界文学全集」「日本文学全集」「日本古典文学全集」などを買って、自分の部屋を本で埋めつくしていた。処分されたと思っていたら、そんな誰も読みそうにない本が丸ごと残っていた。シリーズの何冊かが抜けているのは、私が大阪に持っていった分だ。
 大きな全集本の並んでいる上に、「次郎物語第2部」の文庫本が置いてあるのを見つけて、部屋に持ち帰って読み返してみた。もう40年近く前、この本に初めて出会ったのもたしか、亡くなったばかりのおばあちゃんの家だった。

 3人兄弟の中で1人だけ里子に出され、小学生の時に実母を病気でなくし、屈折しながらもまっすぐに生きていこうとする本田次郎の生い立ちは、今から考えれば私とはずいぶん違ったものだが、あのときはまるで自分のことが書かれているような気がして、むさぼり読んだ記憶がある。
 作者の下村湖人は教師で、この本は今読み返すとかなりロコツに「教育論」に見える。それでもあのときの自分は、親や友だちではなくこういう本の中に出てくる「想像の中の愛情」に頼ろうとしていた。
 それが誰のせいなのか詮索しても仕方がないことは、わかっているつもりだ。問題は今とこれからなのだ。今の自分にとって義母との関係など、どうでもいいことだ。怒りを抱くことさえおかしい。
 次郎が母や祖母への複雑な感情を克服して独り立ちしていくのと同じことが、なぜ自分にはできないのだろうか。そう思うと悲しくなったが、今の自分の中に、40年の間どうしても成長できない部分があるような気がするのも、事実なのだ。
 文庫本を2時間足らずで読み通した後に感じたのは、今の義母との関係ではなく、「今とつながっている過去の自分」と対決するしかないだろう、という何度も見つけた結論だった。


4月30日

 妹の子ども2人が学校に行く前に挨拶しに来て、8時過ぎに起こされる。
 義母はもちろん起きていた。朝ご飯を勧められたが減量中なのでいらないと言うと、「1日1食にしていると結局太るんだよ」と言われた。紅茶だけいただく。
 お風呂も勧められたのだがこれも断ると「今から人に会いに行くのにお風呂に入らないのは失礼じゃないの?」と言われた。やれやれごもっとも。

 これがたとえば親戚のおばさんとか職場の上司とかだったら、こんなことを言われても何も感じないし、言われた通りにするかもしれないし、聞き流せるかもしれない。昔と関係なしに今だけの会話なら、何を言われても我慢できるだろう(我慢するなんていう話でさえない)。

 しかし義母は、私が未だに病気から立ち直れていないことも、そのことに義母自身が関わっていることも、知っているのだ。
 彼女の朝食の心配をするのもお風呂のことを言うのももちろん勝手だが、もしこちらのことを気遣う気があるのなら、そんなことを言う前に「20年以上治らないでいる(向こうから見れば一応)息子」の病気のことを少しは心配したらどうか。そう思うのはまちがいなのか。

 母親を亡くしてしんどいのなら、もちろんこちらをかまう必要などないので、義母は義母のことだけ考えていればいいのだ。「慰めてほしいからこれこれしてくれ」と言われたら、私は何でもするつもりだった。
 しかし彼女は昔と全く同じように、彼女自身のことは一切人に口出しさせず、そしてこちらの気持ちなど一切聞くこともなく、マイペースでふるまい続けた。8年ぶりだから一応と思って、福岡でのカウンセリングのことを説明しても全く聞く耳を持たず、途中で妹が入ってきて用事を話し始めると、私の話は何もなかったかのように流された。

 ……もういいだろうと思って2階に行き、妹の部屋で犬と遊んだり洗いものをしてから、妹に平針まで送ってもらった。
 7才下の妹は私の病気のことはあらかた知っている。車の中で義母のことについてつい感情的に話した私に対して、妹は「お兄ちゃんもママとちょっと似てるね」と言った。ギクリとした。


 かつて暮らした天白はずいぶん雰囲気が変わっていた。ここでしばらく時間をつぶさなければならなかった。
 感情がぐるぐる回り出していたのが自分でもわかった。本屋に入り認知療法の本を買い、ラーメン屋に入り食べないはずの昼食をとり、100円ショップでレポート用紙を買って感情を手当たり次第に書き出す。

 中3まで住んでいたアパートに行く。小さい頃は怖くも何ともなかった11階から下を見る光景が、今は恐ろしい。飛べばいつでも死ねる場所に何年も住んでいたのに、やっぱりいくじなしだったんだね。今もそうか。

 喫茶店に入りコーヒーとなんやらジュースを立て続けに頼み、お腹が痛くならないかと願いながら氷まで食べる。
 喫茶店のテレビで「徹子の部屋」が映っていた。辻井伸行(盲目のピアニスト)とその母親が出ていたのに、異様に腹が立った。子どもに愛情を注ぐ母親なんて見せないでくれ。どこかに行ってくれ。これ以上自分を惨めにさせないで。お願い。お願い。

 義母だって彼女なりに、私を愛そうとしたに決まっているのだ。しかし私と妹で見方が一致しているのは「ママは一生懸命だけど、何でも自分のペースでしかできない」ということだ。彼女はおそらく、私を見ずに私を愛そうとした。それは目をつぶってバットを振るのと同じだ。誰か彼女に、子どもの見方を教えてくれる人はいなかったのだろうか。


 8才から18才までエレクトーンを教えてもらっていた先生と、会う約束をしていた。
 2時間ほど物理を解きながら喫茶店でのたうち回り、2時半になつかしいお宅に伺った。20年ぶり? もっとかな。
 先生は3年前に胆管ガンで余命4ヶ月と診断されたが、手術を受け回復し今は抗ガン剤もやめておられるという。腰も痛められたとかで、かなりやせて歩くのもしんどそうだったが、今でもレッスンをされているとのこと。妹の子ども2人もこの先生にピアノを習っている。

 小学校の頃の私にとって、気持ちを表現する方法はほとんど音楽しかなかった。義母は私の話を聞いていたが理解はできなかった。父は忙しかった。家族以外の人間に「義母といるのが辛い」とは言えなかった。言葉にできない自分の悲しさ、寂しさを表現するために、音楽に頼った。

 この先生は生徒を型にはめて教えるのではなく、音楽で何かを表現することの楽しさを伝えようとしておられた。私は練習熱心ではなかったが、先生に言われるままに色々なジャンルの音楽を弾き、自分でレコードを聴いて編曲し楽譜を書く練習をし、いつかそれらすべてが「自分の音楽」を作り表現するための技術となった。

 私にとって音楽は趣味でも楽しみでもなく、自分自身の分身であり、言葉だけでは表せない誰かへのメッセージなのだ。それは30年前の私にとって、生きるためになくてはならないものだった。先生は私にとって、文字通り命の恩人だった。

 ……図々しいかなと思いながら、昨年クラス会で歌った歌を聴いてもらった。歌いながら久しぶりに涙が出た。
 先生は「歌がうまくなったねえ、昔は本当にヘタだったのにね」と言われた。自分の曲をカセットに入れて先生に送ったのは20年前のことだ。あのときに面と向かってヘタと言った人はいなかったが、自分ではうまくないことはわかっていた。今さらながら言われてうれしかった。
「でもちょっと気になるの、右手の使い方が……こう」
と言って、28年ぶりにレッスンまでしていただいた。腰の痛みでご自分ではピアノがまだ弾けないのに、私の手をとって指の動かし方を教えてくださった。また涙が出てきた。

 最近のエレクトーンは自動演奏が進んで、演奏を聴いていても本人がどこまで弾いているのかさえわからない。機械で便利になるのが音楽にとっていいとは限らないが、その通りレッスンを受ける人が減っているらしい。名古屋なのでフィギュアスケートに憧れる子どもも多く、要するに習い事が多様化したせいもあるのだろう。
 その代わり年配の生徒さんが増えていて、昨年の発表会の写真を見せていただいたら半分以上がオトナだった。

 「潤君の頃はよかったね、みんな眼をギラギラさせて練習していたし、お母さんたちも熱心だったし」と先生は言われた。
 わたぼうしのユウコが亡くなる前に「潤君やルンたちと音楽をやっていた頃が一番よかった」と言っていたのを思いだした。気を遣っていってくれたのかもしれないけど、全部がお世辞だとも思わない。

 私の音楽は技術も知識も半人前でしかないけれど、少なくとも24才でわたぼうしを離れるまでは、音楽を自分自身から切り離して考えようとはしなかった。音楽はどこまでも自分自身で、自分を偽らずにいられる唯一の世界だった。だから納得できない曲は弾かなかったし、弾いている時はすべてをそこに注ぎ込もうとした。……今でもそのつもりだ。

 そういう自分の音楽を初めて認めてくれたのも、親ではなくこの先生だった。
 お元気なうちにお会いできて、本当によかった。


 恩師の家でずいぶん長い時間お話をして、もう一軒知り合いの家にご挨拶に行ってから、急いで植田駅に向かった。気づかないうちに喪服のボタンがとれていた。寒いけど上着を脱いでいく。
 地下鉄で名古屋駅に行き、予定より1時間近く遅れて6時近くの新幹線に乗り、小倉で降りて快速に乗り換え宗像まで行き、タクシーで飛ばして家庭教師の家に向かった。9時から2時間教えて終了。
 この状態で仕事ができるのか不安だったが、いつものようにふるまうことができた。親御さんからタクシー代までいただき、電車で博多まで戻って歩いて家に帰る途中で、急に脱力した。

 ……考えてみれば、お葬式1つ出ただけでこんなに神経を使って消耗すること自体が、どうかしている。
 義母は相変わらずマイペースだったが、こちらが受け流そうと思えばそうできないものではなかったし、○○さんが書いてくれたようにお風呂も朝食もいただいてもよかった。それをしなかったのは、向こうではなくこちらが神経過敏になっていたからにすぎない。

 結局私は、今の義母をもてあましているのではなく、自分の中に残っている過去の記憶、言い表しようのなかったあの頃の感情の記憶にとらわれてしまっているのだ。そのことをまざまざと思い知らされた。

 とらわれから自由になる方法はいくつか学んできた。こうすればいいのではないかというアイディアを、知識としては知っている。しかし自分自身にそれを適用できないのは、私の中にどうしても知識だけでは埋められない「感情の谷間」があるような気がするからだ。
 親を亡くした悲しみ、もっと言えば母親が「いるのにいなかった」という表現しようのないしんどさをどこかで何かの形で埋めなければ、どうしても成長できないような気がしてしまうのだ。これはわがままなのだろうか。

 子どもの時に出会った決定的な衝撃から完全に立ち直ることのできる人は、まれだと思う。
 誰でもいくばくかそのことを引きずりながら、それでも多くの人がまっとうなオトナとしてやっていくすべを見つけて、歩いていくのだと勝手に推測している(そういう人の気持ち、強さは、私には本質的には全くわからない)。
 立ち直れずにボロボロになっていく人も少なからずいるだろう。それが身勝手だとは思いたくないが、私自身はそうなりたくなくて悪あがきを続けてきた……つもりだ。それでもこの年まで立ち直れていない無様な姿をさらしていると、いい加減生きている意味が本当にわからなくなる。

 もうフルタイマーとして社会復帰することはできないのかもしれない。
 一人前の教師としてやっていくことも一生できないかもしれない。
 どんなに必死に目の前のことに取り組んでも、自分自身が生きることを肯定しきれない人間、自分も他人も愛せない人間が、まともな教師であるとは思えない。

 ……それでも歩いていくしかないとしたら、本当に教師をやめるしかないかと思う。他の仕事ならできるとは言えないけど、子どもを傷つけることはしたくないから。

 あれから1週間たったのに、そんなことが頭の中で回り続けて、まだ立ち直れない。勉強していてもミスが続いて、集中力がまるでなくなってしまっている。

 もう本当に限界なのだろうか。(2010/5/9)


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