宗像からのフェードアウト

 (mixiの日記より 2010/7/21)
 3人教えていた家庭教師の生徒のうち、2人が打ち切りになった。
 事情は色々あるのだが、要するに成績が上がらなかったということで、こちらに責任があると言われればその通りだ。
 昨年の高3のように中途半端な状態で本番に突っ込んで失敗するよりは、今のうちに作戦変更した方がいいような気もするので、率直に言うと申し訳ない気持ちとホッとした気持ちが混ざっている。

 中学生はとにかく、高校生なら勉強する動機は本人が持っていないと困るので、親だの教師だのがやいやい言って勉強させるのがいいとは全く思わない。大学に行かれなくて苦労するのは本人だから、そのことだけを「宣告」した上で放っておけばいい、と思う。
 自分に数学をやる気力がないことを認めたのなら、そこから別の方向にがんばればいいので、無理に数学をさせる気は私にはない。やる気をつくり出す手助けが足りなかったと言われたらあやまるしかないが、本人がサボっていることそのものの責任をとるつもりはない。最初から親にはそう言ってあるし、実際そのことでは良心は痛まない。

 要するに私は必死にやりたいという人しか相手にする気がないので、そういう意味ではやはり殿様商売なのかもしれないが、おだてたりなだめたりしながら勉強させて成績を上げるのが本人のためになるとも思えないので、家庭教師についてはこのやり方を変える気はない。

 もともと家庭教師を始めたのは、愛伸ゼミナールがつぶれて行き先のなくなった教え子をなんとかしたい、という気持ちからだった。
 高校入試を一緒にくぐり抜けた生徒の中で、私と一緒に勉強したいと言ってくれた何人かのために宗像に通うのは、金銭的には全く割が合わなかったが、嫌だと思ったことは一度もなかった。向こうの事情で授業料が払えないと言われ、生徒の出世払いでいいですと言ってタダで教え続けた人もいる。
 入試の現実を甘く見て失敗する生徒を見るのは辛かったが、まわりがどんなに言ってもわからない、自分自身が現実に直面しなければわからないこともあるのだということを生徒と一緒に体験し確認できたことは、教師としての私には貴重な勉強であったことも否定できない。大学に落ちた生徒と話して、それでも「ありがとう」と言ってもらえたら、申し訳ない気持ちは残っても、後悔はせずにすんだ。

 ……そして愛伸がなくなってから2年がたち、塾の教え子も最後の学年が高3になり、家庭教師も最後の1人が残った。
 中2から教えているこの子は要領が極端に悪く、未だに「4の書き順に気をつけなさい!」などと怒られるが、小学校の先生になりたいという気持ちだけはずっと持ち続け、そのためにクラブも早く引退し、数学は基本の練習を何回もさせて、やっとマーク模試で4割とれるところまで来た。この夏休みがもちろん勝負だが、おそらくいい時間をすごせるだろう。

 自分自身の生き方を肯定できない私は、自分の持っている何かを誰かに受け継いでもらえると思ったことがない。仲間や後輩はいても、教師としては別の考え方をとるしかないと思っていた。
 しかしもしこの子が本当に教師になれたら、彼女は私の「本質」をいくらかは受け継ぐかもしれない。それはこの子が、同僚として私を横から見るのではなく、かれこれ4年以上生徒として真正面から私のよいところも悪いところも見つめ続けてきたからだ。

 彼女が教師になりたいと私に言った時から、私は私自身の持っている教師としての経験や感情、日本の教師が持っている根本的な矛盾、それを乗り越えるための方向や可能性について、そしてさらにそのような「言葉」をこえた教師という人間そのものの存在を、彼女に伝えようとしてきた。
 それが彼女の中でどのようなものになっていくのかはわからない。しかし何よりも私にとって、そのようなことを伝えられる生徒に巡り会えたのは幸せなことだったし、愛伸の「最後の生徒」である彼女には夢を叶えてほしいと思っている。こういうのはエコヒイキというのだろうか。

 5年間通い続けた宗像とも、あと半年ほどでお別れだ。
 後悔だけはしたくない。生徒にも、自分にも。(2010/7/21)


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