カリキュラムは誰が決めるべきか
中学校の理科のカリキュラムについて、あるMLでの投稿をのせる。2002年8月の文章。
1学期が終わり、色々な中学校でどんな内容の授業をしているか、ある程度わかってきました。
完全に新カリでやっているところ、逆にほとんど旧カリでやっているところ、単元によって調節しているところ、様々です。
絶対評価と相対評価が問題にされていますが、これだけ学校によって学ぶ量や内容が変わってくると、どちらにしても内申点を入試に使うことは問題が大きすぎるでのはないかと思えます。
評価する対象(勉強の内容)が異なっていれば、異なる学校の評価を比べることには意味がないし、そのような数値を入試で使うこと自体おかしいと思います。
またカリキュラムが異なっていれば、絶対評価の基準自体がずれてくることになるので、(教師の主観の問題を除いても)条件つきの評価としてしか見られないでしょう。
このような変化を「内申点の廃止」またはもっと押し進めて「高校入試の廃止」へ持っていけないだろうか、とも思います。
教育の自由化を進めることには賛成ですが、現実問題として入試などがある以上、自由化が差別化につながる面も存在するでしょう。
今回の変化を、そのような現実を変えていくひとつの機会としてとらえられないでしょうか。そういう発想はおかしいでしょうか。
もうひとつ私が考えるのは、カリキュラムを選ぶのが「教師」だけでいいのだろうか、ということです。
教える内容を(ある程度)選ぶことができたとして、それを教える側が一方的に決めてしまっていいのだろうか、と思います。
今年の6月、塾で中3に進化論を教えるべきかどうか随分迷いました。もちろん教えたいのですが、中学で教えていない・入試にも多分出ない単元を塾で教えるのは、時間的な制約も含めて考えるとけっこう度胸がいります。
で、進化を教える前に、生徒に前置きをしてみました。
「今から教えるところは、入試には多分出ない。学校でも習わないかもしれない(実際このクラスの生徒は、学校では誰も進化を習わなかった)。
でもここは中学の理科の中でも一番面白いところの1つだし、こういうことを知っておくのは大人になってから絶対役に立つと思う。授業の後で、この授業が自分にとってどうだったか、感想を書いてください」
90分の授業の後で感想を書いてもらいましたが、「ムダだった」という意見はありませんでした。「面白かった」もあんまりありませんでしたが(力不足)。
今から考えると、この場合は「どっちがいいか生徒に聞いてみる」のが正解だったのではないか、という気がします。
進化の授業をやるか、「運動」の問題演習をして学校のテストに備えるか、という二者択一の場面で、どちらにするかこちらが一方的に決めたのは、まずかったのではないかと思いました。
おそらく生徒の中には、(塾ですから)入試に出ない内容より学校のテストのための授業をやってほしい人もいたでしょう。
また生徒の結論がどちらになるにしても、そういう選択をさせる(考える)こと自体に意味があるとも考えられます。
時間の余裕が十分にあれば別ですが、今の状況では、どんな内容を教えるかを教師の独断だけで決めるのはまずいような気がするのです。
塾の状況はこんなふうですが、中学校にも同じようなことが言えないでしょうか。
時間数が同じであれば、旧カリで教えるのは「スピードを上げて急いで教える」ということを意味します。
そこで生じるマイナスの面と、旧カリを教えるプラスの面を天秤にかける場面があるでしょう。
そこでどうするか、教師だけでなく、生徒や保護者にも考えてもらって、みんなの納得できる方向を相談できないでしょうか。
別に細かいところまで決める必要はないでしょうが、年度のはじめに「どんな方針で年間カリを組むか」ということについて、教師と保護者と生徒が話し合う場を持つことはできないでしょうか。
そういうことができれば、生徒が自分の勉強についてより深く考える機会かもしれません。
もしかするとそういう学校が既にあるかもしれませんが、私の周りでは聞いたことがありません(あればぜひ教えてください)。
本当に教育の自由化というのであれば、選択権を教師や学校が独占するべきではないと思いますが、どうでしょうか。
私は基本的には学校を「入りやすく、出にくい」システムにしてほしいと考えています(アメリカ式と言うのでしょうか)。
入学の時に関門を作るのではなくて、その学校が要求する条件を満たすまでは卒業できないようにする方がよいのではないかと思います。
学校によって学ぶ内容やレベルが変わってくるとすれば、それぞれの高校が「学ぶ内容」をしっかりコマーシャルする必要はあるでしょう。
中学生はそのようなコマーシャルを自分で聞いて、自分にあった高校を自分で選び、入学してからその高校の内容についていけるように(必要なら)準備しておけばよいでしょう。選びそこなったら、あるいは本人に実力が伴っていなかったら、留年なり退学(転校)すればいいだけです。
それは本人の問題であって、学校がそこにわざわざチェックを入れるのは、甘やかしです。試験などお節介だと思います。
逆に義務教育の本来の目的からすれば、中学の内容をわかっていない生徒が中学を卒業するのは、学校の怠慢です。そのような生徒は留年させるべきだし、そんな生徒が出ないように学校は努力するべきです。
(現状が「努力していない」と言っているわけではありません。しかし投げ出されている生徒がたくさんいることも、事実です)
同じように、高校の要求するレベルに達しない生徒はもっと落第させるべきだし、生徒に合わせて卒業の基準を決めるべきでもありません。
しかし私は現実に「出席さえすれば必ず卒業できる」(と生徒が思っている)高校も知っています。これも甘やかしです。
私は、現状でも生徒は十分不幸だと思うのです。
生徒の学力を評価するのに、たかだか数時間の試験だけで○×を出すというのは(どんなにいい問題であっても)お手軽すぎます。
そんな試験のために時間やお金や気力を消費するより、今いる学校の中での勉強を充実させる方向に、目標を修正してほしいのです。
今 生徒を見ていて最も危機感を持つのは、勉強の面白さがわかる生徒が、少しずつですが確実に減少しているように見えることです。
そして(どんなにいい入試問題でも)入試自体によって勉強の面白さを伝えることはできないのではないかと思います。
そうであるならば、ハードルの場所を変えてしまって、
「勉強の面白さを見つけられない人は卒業しなくていいよ」
という形にした方が、少なくとも全体の学力は確実に上がると思います。
こういう意見は極論かもしれませんし、私も今すぐそうなればいいと考えているわけではありません。
ただ全体として、もっと子どもに自由と責任を持たせてよいのではないか、ということは考えます。
そして少なくとも、1次関数がわからない高校生が2次関数のテストの前に泣きついてくる現状は、なんとかしてもらいたいと思っています。
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