勉強する理由

 「なんで勉強するの?」という質問を時々受ける。「こんな勉強しても、役に立たへんやん」とも言われる。
 教師にとっては根源的な問いかけであるが、答えるのは難しい。通信の中でも答らしきもの(これとかこれとかこれとか)を書いているが、自分でもあまり納得できていない。勉強する理由について確信を持って生徒に説明できる教師は、どのくらいいるのだろうか。
 「頭脳力は一生の宝、小さいときの苦労は必ず報われる」と書いてある本があった。「つまらない勉強に耐えるのも修行だ」と言った教師も知っている。塾にいれば「目標の学校に行くために勉強するんだ」という言い方もある。嫉妬の時代に書いてあったように学校の勉強を「必要悪」と見なせば、学校での勉強とは社会に適応していくための練習だ、ということもできるかもしれない。
 だいたい生徒がこのように問いかけるのは、勉強がつらくなっているときである。勉強を面白いと思っている生徒はこんな質問をしない。単に勉強する理由ではなく、つまらない勉強を無理矢理する理由を聞いているのだ。同時に「もっとやりがいのある(面白い)勉強をさせてくれ!」という要望なのかもしれない。
 だからこんな質問が出ないような授業を続けていれば何も問題はないわけだが、そういうわけにもいかない。
 中学の理科はたいてい「顕微鏡」から始まる。教室の前の方に顕微鏡を並べて、プランクトンや生物組織などを生徒に自由に見させてやると、多くの子どもたちは飽きずにプレパラートをつくってはワイワイ言い合いながら観察している。そういう時の生徒は「もっと色々見たい」「次の時間は○○を見たい」という感想を書いてくれる。それがもう少し進んで、植物の葉の構造だの維管束のつくりだの、細かい知識の暗記が続いてくると、だんだん「面白くない」「なんでこんな勉強をするん?」と言うようになる。つまり私の授業がつまらなくなってくるために生徒の反応が変わってくるのだ。
 カリキュラムにしばられずに、生徒の興味をひきつけられるような教材を選びながら、生徒のペースに合わせて授業をやっていくことができれば、勉強する理由を聞かれることなどなくなるのかもしれない。……のか? 私にそんな授業をする能力があるのかどうかわからないが、やってみたい気持ちはある。
 勉強する理由について考えると、要するに「面白いからやるのだ(=面白くない勉強の内容に問題がある)」「面白くないけど、これこれの理由でやるのだ(=勉強しない子どもの構え方に問題がある)」の2つの立場が出てくる。これは勉強の理由というより、勉強(学校生活)の目的をどうとるかによって決まってくる。そうするとこれはほとんど価値観の問題になって、1つの正しい答など存在しない、ということになるのかもしれない。

 学校で学ぶことがオトナになってから役立つという保証は、誰にもできない。それは"役立たない"ということではなくて、"役立てられるかどうかは本人次第"だからだ。歴史の年号など覚えるのはアホらしいと高校時代に思っていても、オトナになってから本気で歴史を学び直して「もっと年号を覚えておけばよかった」と思うかもしれない。逆に学生時代にどんなに猛勉強しても、その成果を出さないような生き方もできる。私は音楽の勉強に数百万円かけてきたが、それがどれだけ自分のためになっているのかまるでおぼつかない。
 勉強とは単なる知識の集積ではなく、自然観・人間観・社会観を身につけることとつながっているはずだが、そこまでの見通しを持って学ぶことができないと、行き当たりばったりになってしまって、労力の割にはうまくいかないということもあるだろう。中学や高校の理科のカリキュラムにも一応そのような体系性はあるはずなのだが、生徒が理科を学ぶ中でどこまで「自然観」をつかんでいるか疑問だ。
 もっともしっかりした自然観や社会観などなくても、生きていくことはできる。むしろ民衆がそんなものを持っていない方が都合がいい人もいるだろう。そういう人にとっては、面白くない知識の羅列のような勉強を「修業」させ、勉強に対する拒否感だけを植えつけるシステムは、好感が持てるに違いない。国民ひとりひとりにオリジナルの自然観や社会観を持たせることも義務教育の「義務」ではないかと思うが、今のこの国にはそういう観念は薄いのだろうか。

 おそらくひとつだけ、子どもに理解しにくいことがある。年をとると頭脳も衰えてくるということだ。当たり前のことなのだが、しかし若い人が実感としてつかむのはほとんど不可能である。「人間はいつか死ぬ」と同じだ。
 私の例が参考になるかどうかわからないが、30才あたりから、なんというか「頭がしびれる」ような感覚があった。以前なら頭がどんどん回転していたのが、ブレーキがかかって動かなくなる感じだ。そのうちしびれが続いてくると、頭の回転が遅くなるだけではなくて、以前なら気がついて(ひらめいて)いたであろうことが、ごくわずかずつだが見えなくなってきた。恐ろしいことである。頭で商売する人間としては半ば致命的だ。
 このような衰えはおそらく、どんなに他人事を言われても実感できない部分があるだろう。しかしそれだけに私は、「若いうちに頭の回転能力を身につけておいてほしい!」と言いたい衝動に駆られる。学歴とか偏差値とかいうことでなしに、鍛えられるうちに体と頭を鍛えておいてほしい、それが年をとってから必ず君たちの支えになる、と。
 しかし言葉でグダグダ言うよりも、年齢の衰えにもがき苦しんでいる姿、衰えと必死に闘う姿、そういうものを見せていくしかないような気もする。なんのことはない、子どもに勉強の理由を説明するには、オトナ自身が「若いときに勉強が必要である」ことを証明すればよいのだ。

 教師というのはマンネリに陥りやすく、しかも学校で学んだことがそのまま仕事に役に立つという珍しい職業である。衰えをごまかしやすい仕事だとも思うが、生徒に対して頭の衰えの恐ろしさを証明するのはかえって難しい。ここが教師にとっての問題である。
 教師に必要な資質はいくつかあると思うが、「勉強を続けることで自らの衰えと闘い、その姿を子どもに見せる」という能力も必要なのではないかと思う。下り坂でもかまわないのだ。歩いているかどうかが問題であって、それはまちがいなく子どもに見抜かれるだろう。

 松田道雄氏がかつて書いているように、人間の才能を探し当てるのは、鉱脈を掘り当てるのに似ていると思う。山のあちこちから根気よく掘っていかなくてはならない。大きな鉱脈ほど掘り当てるのに手間も時間もかかる。掘り出してからもじっくり磨かなければ光らない。そして掘り出したものの真価を問われるのはずっと後である。
 勉強の目的を「鉱脈を掘り当てること」だとすると、そのことを子どもにどう伝えたらよいのか。子どもの中にある才能を信じ励ますこと、才能を開花させた先輩の話を聞かせること、そして教師自らが自分の中の"山"を掘り続けその姿を見せること、ということになるのだろうか。今まで教えてきて、子どもの中に"鉱脈"を見つけたことは何度もある。私自身がその"鉱脈"に対してどれほど敬意を払えるか、子どもとともにどれほどその"鉱脈"を大切にできるか、それが結局勉強する意味を教えることになるのかもしれない。(2004/5/30)
補足;映画『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』で、次のようなやりとりがあるらしい。
満男「何のために勉強するのかな」
「つまりあれだよ。ほら、人間長い間生きてりゃ、いろんなことがあるだろう。そんなときに、俺みてえに勉強してない奴は、振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるしかしょうがないんだ。ところが勉強をした奴は、自分の頭できちんと筋道を立てて、『はて、こういうときはどうしたらいいのかな』と考えることができるんだ。だからみんな大学に行くんじゃないか」
 このような考え方もあるだろう。しかしこの「考える」感覚は、おそらく子どもの時から実感することのできるものであって、オトナにならないとわからないというものではあるまい。子どもが要求しているのは「今このときに勉強する意味を感じる」ことであって、それが理不尽な要求だとは私は思わない。これは結局勉強の内容の問題であって、どう子どもに説得するかという問題ではないのだと思う。(2006/10/18)

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