息抜きの重み

 中1や中2の担当のときは、学期の終わりに「打ち上げ」をする。1学期の終わりにはシャーベットつくり、2学期の終わりにはイチゴアメつくりをして、授業の後1時間ほど教室でパーティーをする。参加するのは生徒の7割といったところだが、非常に盛り上がる。
 理科というのは便利なもので、たいていのことを実験としてやれる。この打ち上げも一応実験を兼ねるという建前なので、塾の方からもお目こぼしをいただいているわけだが、生徒の方には勉強という意識は全くない。普段見られない子どもの顔を見られるのも、こちらにとっては収穫である。
 正直に言うと実験は好きではない。実物を扱うのは基本的に苦手で、理屈で考える方が好きである。そんな私でも、生徒が喜んで食べているのを見ると、張り切って準備ができる。
 このパーティーを考えついたとき不安だったのは、塾側が許してくれるかどうかではなく、生徒がのってくれるかどうかだった。わざわざこんなことを塾でしなくても、他に楽しいことがたくさんあるのなら、誰も参加しないかもしれない。まあそれならそれでいいのだが、空振りしたらどうしようという心配はあった。しかし生徒は大いに楽しみ、年度末のアンケートでも「食べたのがよかった!」という意見が多い。(授業よりも打ち上げが印象に残ったとしたら、私の授業能力の問題でもあるわけだが……)
 子どもの顔を見ていて感じるのは、単純だが食べものの魅力、そして余計なプレッシャーがないことの心地よさである。普段緊張した顔しか見せてくれない子も、ものを食べているときは素顔になる。点数とか「わかる・わからない」から解放されているからリラックスできる。そんなシンプルな理由だけで、子どもたちはこの時間をとても楽しんでくれているように見える。ドライアイスにジュースを加えるところでお茶を入れてみたり、イチゴアメの残り物でスプーンアメをつくってみたり、こちらが思いもしないようないたずらをして楽しむ。「こんな楽しいこと、最近してない」などと言う。
 これは実はかなり重大な状況ではないかと思う。この程度のお楽しみはもっとあちこちにあるべきなのだ。こんな塾の企画ごときで喜ぶのであれば、自分たちでパーティーをつくれるか。学校は勉強の場所だが、学校の中でも楽しいことを生徒自らつくり得るか。それだけのパワーと余裕を持っているか。
 夜 駅やコンビニの前にたむろする子どもたちを見ていて、私は不安になるのだ。この子たちはどれだけ自分で「楽しいこと」をつくり出しているのか。オトナが飲み屋でくだを巻くような時間の過ごし方をしていないか。せめて「シャーベットをつくる」くらいの楽しみを探す力を持っているか。そういう力を私たちは教えているか。
 子どもは遊びの天才であるという言葉を私は信じたいが、30年前と比べて遊びのための環境がどれほど残されているだろうか。オトナによって押しつけられたような遊具ではなく、子どもが自分の意志と知恵で遊びをつくり出せるような環境はどれほどあるか。子どもが子どもらしくいられる環境をつくることがどれほど大切か、もっとすべてのオトナが考えるべきだと思う。(2004/6/16)


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