教科書は教材じゃない

 ここで書いたように、「検定外教科書」の編集にほんの少しだけ関わった。市販されているこの教科書はなかなか売れ行きがよいそうだ。学年別の3分冊の他に1分野(物理・化学)と2分野(生物・地学)の2分冊も出版され、私立を中心に学校での使用も始まっているという。
 現在の小学校や中学校の理科教科書は内容が貧しすぎるのでなんとかした方がよい、という気持ちは自分にもある。自然科学についてそれほど詳しいわけではないが、そんな私からでも今の教科書は肉と皮をそぎ落としたガイコツのように見える。この間行った研修会で「アドバンシング物理」という外国の高校の教科書を見たが、内容はとにかくページ数に圧倒された。これだけの教科書(おそらく指導書などという甘やかしもない)を使って教えるとしたら、それだけでも教師の力量は今より向上するだろう。
 たしかに、よい授業をするためによい教科書は有効かもしれない。しかしよい教科書がなくてもよい授業はできる。私が見てきた"名人教師"の多くは、教科書を使わない授業をしていた。私立高校で教えていたときの先輩は、内容こそ教科書通りだが、黒板とノートと生徒とのやりとりだけで完璧に授業をつくった。研修会で出会った公立中学の先生は、芸術的なプリントを使って天体の模擬授業をされた。今の塾のベテランの国語の先生は、教科書に頼らず文学の知識を自由自在に操って、生徒が心酔する見事な授業をつくりあげている。
 18年前 私が初めて教えた場所は、テキストを使わずプリントを配ってはファイルさせるやり方の塾だった。プリントの原版はあるのだが、物足りないところは自分でプリントを追加したり、いらない原版は印刷せず飛ばすということも多かった。何年かすると、科目によっては解説部分を含めてプリントを全部つくるようになった。若いからできたとも言えるが、そのころの生徒を実験台にして修業させてもらっていたようなものだ。
 教科書を使わない授業の見本、そして教科書のない授業形式が刷り込まれた結果として、私は"テキストを使いたいと思わない"教師になった。どんなによい教科書でも、ひとつの教科書だけで満足できる教え方がイメージできないのだ。様々なテキストや資料のいいとこどりをしてプリントをつくってきた後遺症だろうか。自分の教え方に最も合った資料をつくり、板書などでノートをとらせ、単元内容と条件にあった実験を試み、教師と生徒の意見のやりとりからお互いの考えを深める(最近これができない……)。これらの作業の中で、教科書は大きい位置を占めない。学校で教えていた頃はほとんど教科書を開かなかったし、塾のテキストは暗記用のまとめか資料の一部+問題集といったところだ。
 このようなやり方では、○○権の問題(今のところなんとか大丈夫らしい)やコストの問題の他に、たまに生徒から苦情を受けることがある。だが話してみるとそれは私のプリントの管理指導の問題らしく、教科書を使っていないことそのものに対するクレームはほとんどないようだ。
 教科書を使わない教師のとるべき方法のひとつは、その人自身が教科書をつくることである。今回の検定外教科書の他に、Z会から中学生用の物理・化学・地学教科書が出版されている(学校用)。この本は各分野がそれぞれ1人で執筆されており、著者の思い入れと、こだわりにあふれた標準からの逸脱が見られる。この本を読んでいると、これだけのものが書ける力を持っている人への憧れを感じると同時に、教科書といえども本質的な部分で個性的であることが必要なのだと思う。だからこのZ会の教科書にしても、おおいに勉強にはなるが、私にとっての「理想の教科書」ではあり得ない。
 このようなことを考えていたときに、最初に挙げた検定外教科書の編集をされた左巻さんの、次のような言葉に出会った;

 この教科書は学校教育の状況を変えていく出発点です。
 塾の教材としては全く考えてもいません。
 学校での黒板とチョークの教科書解説授業のためのものでもありません。
 授業でメインの教材としても考えていません。
 理科の授業のメインは、自然の事物、現象、それに自然科学です。それを課題方式や授業テキスト・授業書・ワークシートで授業をする、その補助教材として、この教科書を授業で学んだことを、教師が解説したり、子どもたちが読んで知識をしっかり身につけることに使うことがねらいです。

 左巻さんのこの意見ももっともだと思うのだが、私はさらに一歩進めて
 自然科学の教材は、根本的には自然そのもの以外にないと考えたい。
 教科書もプリントもビデオも参考書も問題集も、実際の自然を認識するための「のぞき窓」にすぎない。中学の動物の学習が脊椎動物中心になっているからといって、自然の中にあふれかえっている昆虫を無視していいはずがない。天体を学ぶのは数学まがいの図形パズルを解くためではなく、実際に観測される事実が何か、そこから何がつかみとれるかを徹底的に追求するためである。教科書に載っていないものは教えなくていいという免罪符にするくらいなら、教科書などない方がいい。また自然を見るという観点から言えば、教科書とそれ以外のものに主従関係があるわけでもない。自然の本質をつかむために有効であるかどうかだけが基準になるので、どれだけよくできた教科書でも向かない場面では使うべきでない。もちろん教科書は本来自然をきちんとのぞくためにつくられているはずだが、現在の教科書は自然ではなく学習指導要領を基準としてしまっているので、すべてがうまくできているわけではない。さらに言えば自然をどのようにのぞき込むかは子どもの自然観にも左右されるから、メガネやコンタクトがそうであるように、(たとえ検定外であっても)万人にとって理想の教科書など存在し得ない。よい教科書をつくることに意味はあるが、どんな教科書にも限界と向き不向きがあるので、教科書だけで理想の授業はできないことを理解しておくべきだ。
 このような考え方は異端であろうが、どちらにしても長い目で見れば教科書を特別視する教育は廃れていくだろう。よりよい教科書をつくるのもいいが、子どもがもっとナマの自然を味わえるような「教育問題としての自然保護」についても、もっと考えるべきだと思う。(2004/8/3)


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