個別指導の思想

 以前の教え子と食事をする機会があった。個別指導の塾でバイトをしているとのこと。給料は90分で1500円だが、準備やら片づけやらの時間を入れるととても割が合わないので、やめようかどうか迷っているらしい。受験生を持っているそうなので、「どちらにしても早く決めた方がいいよ」と言って別れた(結局彼女はやめてしまった)。
 塾の世界では個別指導が大流行で、今までのクラス制と並立して個別指導を新しくつくっている塾が増えている。うちの塾も今年度から本格的に個別指導を行っている。需要があるのはまちがいない。「今のままでは成績が上がらないので、個別指導の塾に行きます」という生徒もいる。以前学校の少人数学級制が議論されたとき「それなら1人のクラスが理想なのか?」と言っていた人がいたが、期せずしてこのような形で「1人クラス」が普及し始めているわけだ。
 経営側からすると、個別指導というのは大変だ。15人程度のクラスで教えるのと、せいぜい3人までの生徒を個別に教えるのでは、コストが違いすぎる。最初に書いた教え子のように、大学生などのバイトの人を使っている場合もある。バイトだから専任より教え方が悪いとは限らない。特に家庭教師や個別指導のような形では、子どもと意思の疎通さえとれれば、経験がなくてもうまくいく場合があるから、安いから悪いとは言い切れない。
 想像すると、個別指導は大変だろうなと思う。人数が少ない分「わかるように教えるのが当然」になるから、教える側にプレッシャーがかかる。多人数クラスだと教師と相性の悪い子がいても全体の中でかみ合わせる方法があるが、1対1だと感情の行き違いをその場で解消するのは難しい。クラスでする授業は基本的に教える側がメニューを決めるが、個別指導の場合はおそらく生徒のリクエストに合わせるケースが多いから、いわば教材も授業もアドリブの連続になる。先の教え子は90分間3人を教え続けていたそうだが、私がそれをやったらものすごく疲れるだろう。
 今までの塾で「個別指導」がなかったわけではない。受験学年になるとテスト前に「質問会」をつくって、山のような個別の質問を受ける。普段でも希望があれば、クラスの授業とは別に質問の時間をつくる。一から十まで個別指導でやることはもちろんできないが、だいたい私くらいの力量の講師では一斉授業だけで十分な指導などできないから、個別的な指導を組み入れるしかない。だから私も個別「的」指導はしたことがあるが、教材や生徒への対応のコントロールがかなり難しく、2時間やるとたいていヘロヘロになった。(どうしてもしんどい時は『休憩時間』を入れて雑談していた。まあ授業料をもらっているわけではないのでいいでしょ)

 個別指導の需要が増えている理由はいくつか考えられる。
 ひとつは、学力格差が広がっていることだ。集団授業は−−−特に問題の説明や演習の場合は−−−生徒全員のペースに合わせることができないので、わからないままの子ども、あるいは問題が終わってヒマをもてあます子どもが出てくる。ヒマな子には別の課題を与えればすむが、わからないで止まっている子のケアがどこまでできるかは、教師の力量と生徒の根気による。すぐれた教師ほどひとりひとりをきっちり見て適切な指導をすることができるが、私のような普通(以下?)の教師なら授業時間内でわからない子が出てくるのは避けられないから、個別「的」指導で補うしかない。先に書いたような質問会とか、しんどそうな子を呼んで補習をするとか色々やってみるのだが、この状態が続くと生徒も教師も消耗してしまうことが多い。入試とか試験前とか特殊な時期をのぞけば、ただでさえ授業がしんどいのにさらに時間外で勉強するというのは生徒には苦痛だし、正規でない補習を組み続ける余裕は普通の塾講師にはない。そうすると個別指導の方が結局生徒にも教師にも効率的である。
 以前にもそういう子はいたが、わからなさの"質"が変わっているような気がする。昔とくらべると今の子はずいぶん前に習ったことからやり直さなければならないことが多い。小学校できちんと理屈をわかる経験が少なくて、一度習ったこともすぐ忘れる。こういう要素が重なると、個別に見ないととてももたない。生徒個々の事情はあるにしても、授業時間の減少やカリキュラムの変化の影響があることはまちがいないだろう。
 もうひとつは、教える側からの一方通行授業に対する拒否が表面化していることだ。教師の言っていることがわかってもわからなくてもとにかく聞いて書き問題を解く、以前は容認されていたこういう形の授業に対して「それはイヤだ」と言える空気が生徒や保護者の間に広がってきたのだと思う。学校でなく塾で個別指導が広がってきたのは、商業主義のゆえにお客の需要への応答が早いというだけで、流れとしては学校でもこれから個別指導が広がっていくのかもしれない。
 本やテレビやインターネットなど勉強の材料に事欠かない今、教師のペースで教師の計画通り一方的に知識を受ける作業は時代遅れとも言える。結果として授業への集中力は落ちる。これは多分上の学校になるほどひどい。大学の講義が成り立たないという話はよく聞くし、高校でも聞き流されている授業の割合は中学より多いはずだ。
 一方通行授業にメリットがあるとすれば、<教える側のプラン通りに決まったパターンの知識を詰め込むのに能率がよいということだ。たとえば勉強の目的がパターン化された試験のための「山張り」であれば、一方通行授業でも大きな拒否は起こらないだろう。つまり一方通行授業への拒否は、パターン化された試験のための勉強、自動販売機のように教師の教えたパターンをはき出す作業の拒否とつながっているのではないか
 個別指導でも一方通行になる危険はあるが、少なくとも教える側がその気になれば、生徒を見て生徒のペースに合わせて生徒の考え方を尊重しながら教えることは集団授業より容易だろう。少なくとも個別指導の塾はそのように宣伝している。結果として同じ「試験のための山張り」になっても、今までの集団授業よりましだと感じるのだろう。
 さらにもうひとつの理由は、授業の中での生徒相互の交流がやりにくくなっていることだ。集団で授業を受けると、人の意見に影響されたり他人を意識して問題を解いたりしていく中で、生徒は集団の中の自分を意識せざるを得ない。それを本人のプラスととるかどうかは状況にもよるが、全体として「他人と一緒に学ぶことをプラスにする力」が以前より少なくなっているように思う。自分のペースだけで精一杯というか、他人とのやりとりから何かを吸収するよりも、他人との関わりを疎んじ、ひたすら自分の目の前のことをこなす方をとる子が多いように感じる。勉強とはひとりでするものだ、という思い込みだ。
 集団授業にはもちろん、個人指導では得られないよいところがある。仮説実験授業のように生徒間の討論を前提とする授業では、生徒が集団内で相互に学び合うことができる。仮説でなくても授業で実験をするとたいてい「ああじゃないの」「こうしたらどうなん」「えー、そうかぁ」など意見が出てくることが多く、生徒がお互いの意見を聞くことで刺激を受け考えることができる。 ……のだが、年々そのような実験に対する反応が鈍くなっているのを感じる。実験を教科書に書いてある通りの結果しか出ない単なる見せ物だと思っているのかもしれないが、実験自体には興味を持ってもそこから意見が広がっていかないことがままある。そうだとすると、集団授業のよいところが現れにくい分、個別指導に魅力を感じる子が多くなるのかもしれない。おそらくこのような傾向は理科に限らないだろう。
 これには、子どもの遊びが少なくなったという事実が関係していると考える。集団で遊ぶ楽しさは、集団で学ぶ楽しさにつながる。少なくとも私自身はそのことを実感している。他人との関わり合いの中で自分を伸ばすことの意味を肌で知らないと、集団授業のよい面を感じられないのはむしろ自然かもしれない。  日本の学校での集団授業は、元々上に書いたような一方通行のものだったと思われる。そこから抜け出して、子どもと教師とのやりとりの中から学んでいく授業をつくってきた実績が、日本の教師にはある。それは教師の力量と生徒との信頼関係、そして子どもの「話し合う力」に支えられてきたものである。
 個別指導が増えることは、子どもの側の選択肢が増えるという意味でいいことだと思う。現状で勉強がわからなくて苦しんでいる子のために、1対1の指導は必要でもある。しかしその流れが、今までにつくられてきた「一方通行でない集団のよさを活かした集団授業」を否定する方向に行ってほしくはない。そして将来、今の個別指導や一斉集団授業の長所を取り入れた、新しい形の授業が生み出されることを願う。そのときに、あの教え子のように個別指導塾で悪戦苦闘しているバイト諸君の苦労が、本当の意味で報われるだろう。(2004/12/11)


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