型にはめるか、ともに探すか

 教育基本法の改定が言われているが、ヒマなんやなあと思う。
 子どもに関する問題を解決するのは簡単ではないだろうが、今すぐ取り組まなければならないこと・取り組めることは私が思いつくだけでもたくさんあるし、理念や理想として議論しなければならないこともあるだろう。それらを列挙した上で、重要なものから手をつけていくべきだと思う。私が見た限りでは、教育基本法を変えることがどのように重要なのか、理論立てて説明した文章はない。自民党の幹事長がいみじくも言っているように、基本法を変えても日本はそう簡単には変わらないと言うのであれば、もっと先にするべきことはたくさんあるだろう。現状で教育基本法を改定するべきだというのは、現場を無視したお上仕事であり、かつ別の意図を持っているとしか考えられない。
 たとえば読売新聞1月5日の社説は、まったく説得力を感じないばかりか、自らの偏った考えのもとに子どもを「型」にはめようとしているだけに感じられる。(以下は社説についての文章なので、まず社説をお読みください)
 まず、現行の教育基本法にも「教育の目標」は掲げられている。
前文 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
 上の社説で、現行の基本法に対して新しく挙げられているのは「豊かな情操と道徳心の涵養」「正義と責任、公共の精神」「良き習慣」「伝統文化」そして問題になっている「愛国心」といったところである。
 逆に現行の基本法にある「平和的な国家及び社会の形成者の育成」は削除されている。また第3条「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない〜」の「ひとしく」も削除されている。
 私は問いたい。教育基本法の改定を訴える人にとっての「道徳心」とは何か。汚職まみれの政党の中にいる人の言う「正義と責任」とは何か。差別を根本的になくせていない社会をつくっている人の「良き習慣」「伝統文化」とは何か。そして毎年何百人と病死するホームレスの人を放置し、国の土台である自然を金儲けのために破壊し続け、国を滅ぼす危険の限りなく大きい原子力発電所を推進し続ける人の言う「愛国心」とは何か。
 本気でこのようなことを訴えるのであれば、何よりもオトナが手本を示すべきである。今の日本のモラルがまだもっているのは、愛国心だの伝統文化だのを法律にしようとする人のおかげではなく、実際に子どもの目の前でモラルを体現するオトナが少なからずいるからだ。オトナができないことを子どもに要求するのは、オトナのわがままである。そしてオトナが本気で見本を示し、それが"かっこいい"ことを見せつけるのが、何より子どもに対して説得力を持つことを、私は子どもから教えられて知っている。
 中山成彬文部科学大臣は産経新聞で、「この世に生を受けてありがたいと思う気持ちが、家庭を愛し、故郷を、国を愛する気持ちにつながる。」と言っているが、たとえば国の政策によって故郷を破壊された水俣の漁民は国を愛せるか。国の無策によって放置されたハンセン病患者は国を愛するべきか。国が家庭や故郷を抑圧し壊す場合もあるとしたら、国を愛することは家庭や故郷のためにはならないのではないのか。子どもが「生を受けてありがたい」と思えるような家庭を、故郷を、国を、つくれていると本気で言えるのか。普通の人が言うのならいざ知らず、文部科学大臣が言うにはうぬぼれすぎていないか。そもそもたかだか千数百年の歴史しか持たない「国」と、ホモサピエンスとしてこの故郷ですごした数万年とを並置するのはおかしくないか。沖縄の人は、アイヌの人は、本当に今の日本を愛するべきなのか。
 民主党の西村真悟衆院議員は教育基本法改正促進委員会で「お国のために命を投げ出してもかまわない日本人を生み出す」と述べたそうだが、そこまで言うのなら自らが手本を示すべきである。なぜ彼はこのようなことを言いながらぬくぬくと生きているのか。命をかけるべきことはいくらでもある(拉致被害者の捜索に北朝鮮へ行ったらどうか)だろうに、いつまで生きているのか。それくらいの覚悟がなくてこんな極論を言うのなら、要するに卑怯者であり、オトナの見本として最悪である。本当に彼は恥ずかしくないのだろうか。
 学校の授業で、道徳教育の実践に努力されている先生はたくさんいる。成功例も失敗例もあるだろうが、それらの実践記録を集積し閲覧可能にし、理念から方法論に至るまで一般を含めて議論する場を提供し、明日の授業から遠い将来に至るまでの道徳教育をつくり出す場をつくることだってできるだろう。定義していない道徳を法律によって押しつけるのは、思想統制であるばかりでなく、「道徳嫌い」を産み出し逆効果になりかねない。
 上の社説では愛国心について「日本人として持つべき当然の特質なのに、今では意識しないと出てこなくなってしまったものだ」と書かれているが、では社説の筆者には愛国心はあるのか。筆者はどのような行動を通して国を愛していると言えるのか。そもそも国を愛することは本当に当然なのか。歴史の中で「愛国心」を持った日本人はいったいどれだけいるか。イラクでアメリカ軍に対してテロを繰り返している人々が「愛国心からしているのだ」と言ったら(多分それは本心だろう)、筆者はこのテロ行為を支持するのか。国を愛することが本当に人間の幸福につながるか、筆者は歴史からきちんと学んだことがあるのか。
 〈失われた精神〉などというのなら、何よりもまずオトナがそれらを取り戻すべきであって、教育基本法改定など不要である。「成人精神法」でもつくってオトナを管理すればよい。それをせずに子どもに対してだけ精神を押しつけるのは、勇気がないのだ。弱いものいじめのような考え方で、新しい教育観など見えるはずがない。
 このような方法で、学力低下や少年非行や学校の荒れに対してどんな効能が期待できるのだろうか。このやり方でいったいどのように子どもは育っていくようになるのか。この社説では何も説明されていない。楽観的とも非論理的とも無責任とも言える。私がイメージできるのは、かつて多くの日本人がカルト天皇教に洗脳され「天皇のために死ね」と言われた時代の、あの暴力と無責任にまみれた秩序だけである。社説には、
 一部に、的はずれな批判を繰り返す勢力がある。「思想信条の侵害だ」「戦前への回帰だ」。そうした人たちには、では、あなたは今の子供に何が教えられるのか、と尋ねてみたい。
とあるが、この文章そのものが、筆者が「思想信条の侵害」「戦前への回帰」を意識していることを証明している。社説で「尋ねてみたい」もないと思うが、はばかりながら私程度の教師でも、この社説の筆者よりはましなことを子どもに教えられる、と自信を持って言える。筆者の質問に答えられるオトナは日本中に数えきれないほどいるだろう。
 何回も書いてきているが、子どもの問題はすべてまずオトナの問題である。子どもが人を殺すのは、オトナが人を殺すことを認めてしまっているからだ。子どもの学力が低下しているのは、もちろんカリキュラムや子どもの育つ環境の変化もあるが、何よりも「学力が人間を幸福にする」ことをオトナが証明していないからだ。いい学校に入るとかいう意味ではない。学校で学んだことが本当に人生の中で役に立つことを、オトナが子どもに見せつけていないということだ。
 人を殺さないことを教えたいなら、人間を大切にすることを教え実行しなければならない。子どもに勉強させたいなら、まずオトナが子ども以上に勉強し「勉強の楽しさと大切さ」を見せなければならない。私にそれができているなどとは言わない。しかし今までに子どもに何かを教えてこられたとしたら、そういう方向に努力した結果以上のものではない。もちろん日本中に、私なんぞよりよほど努力し子どもと向き合っている教師やオトナがいる。この社説の筆者は、何よりもまずそういう日本中の"師"から学ぶべきであろう。
 子どもを巡る問題は重いが、しかし本当にオトナが本気になって取り組めば、実はそれほど難しい問題ではないと思う。子どもが幸せになる方法は、誰よりも子ども自身が知っている。オトナが型にはめる前に、苦しんでいる子どもととことん向き合って、一緒にうまくいく道を探すべきだ。それは子どもの言いなりになることではない。子どもとの信頼関係をつくった上でなければ、オトナの言い分を聞かせることもできないし、オトナが軌道修正をすることもできないということだ。子どもを信頼しないオトナに、子どもの問題を解決することはできない。そして子どもが信頼するオトナでなければ、子どもに本気で何かを教えることはできない。こんな当たり前のことをすっ飛ばして、法律で子どもの「型」を決めるのは、税金のムダ遣いどころか有害な作業でしかない。教師が会社などで研修するのも有益かもしれないが、何よりも政治家が学校で子どもと向き合う「研修」をするべきではないのか。(2005/1/7)


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