国歌国旗に関する意見

 学校での君が代・日の丸の強制について、MLに投稿した意見を載せます。いくつか重複している部分もありますが、できるだけ原文に近い形にしました。



 私から見ると「国歌国旗に対する敬意の強制」そのものが偏向したイデオロギーであって、いかに多くの国でその偏向イデオロギーが大勢を占めていたとしても、公教育でその儀礼を強制する方が異常だと思います。
 自国に誇りを持つことと国歌国旗に敬意を払うことは、論理的につながりません。国歌国旗に敬意を持っていても国を破壊している人はたくさんいるし、国歌国旗に敬意を払わなくても国のために働いている人もたくさんいます。
 国に対する愛情と歌や旗に対する態度を形式的に結びつけるのは、逆に国に対する愛情を真剣に考えていない証拠ではないかと思います。

 子どもが国に誇りを持っていないのは、突きつめて言えば、オトナが国に誇りを持っていないことの反映にすぎません。歌や旗がどうとかいう問題よりも、子どもを囲むオトナがどうやってこの国に誇りを持つのかを考えるべきです。
 今の子どもが問題を持っていることと、国に誇りを持っていないことを短絡的に結びつけるのは、オトナの責任転嫁でしょう。

 もっと言えば 国に対する誇りを持っていないことが真に問題なのか、そもそもそんな思想操作を教育の目的とするべきなのか、そこから議論を始めるべきだと思います。
 国に対する誇りなどなくても、まわりに迷惑をかけずに助け合いながら生きていくことはできます。逆に、国の誇りを振りかざして犯罪まがいの行為をする人々もこの国にはたくさんいます。
 一体国に対する誇りとは何なのか、そんな抽象的な言葉が歌や旗などと単純に結びつけられるのか、考えてみてほしいです。

 問題は歌や旗に対する敬意ではなく、歌や旗に「敬意を表したい」「表したくない」両方の人に対して、どう敬意を表し儀礼を保つかということです。
 歌や旗に敬意を表する人間の思いと、敬意を表したくない人間の思いの両方に対して、偏向せず等しく敬意を表するために一番簡単な方法は、国歌斉唱や国旗掲揚を公的な場で禁止することです。やりたい人はやりたい場所で自由にやればよい。卒業式や入学式でも、式次第が終わった後で希望者だけ残ってやればいいのです。

 子どもに何も教えないことは確かに問題ですが、儀礼だから敬意を払うのが当然という教え方をするのは、もっと問題です。
 歌や旗に敬意を表するのが儀礼ではありません。歌や旗に敬意を払いたい人、払いたくない人の両方に失礼のないように、自らの思想の自由を通すのが儀礼です。歌や旗に敬意を払いたくない人が儀礼として敬意を強制されるのなら、歌や旗自体が「儀礼に反する」のです。
 敬意を払う自由と払わない自由をお互いにその場で尊重できないのであれば、そんな儀礼に反する行為を公共の場ですること自体がおかしいのであって、私ならそのような意思表示をした上で、歌や旗自体に対する敬意を拒否します。(そんな、思ってもいないことをすることの方が儀礼に反します)
 他の国の人(の一部)が国歌や国旗を大切にするからといって、日本人がそうできないのが恥ずかしいのでしょうか。日本は日本の、他の国より進んだやり方でいいとは考えないのでしょうか。

 法律でもない指導要領を根拠にして、憲法違反の行為を強制するのは、ある意味でテロ的行為とも言えます。こんな指導に賛成する教員や公務員こそ憲法の意味がわかっていないので、子どもを育てる立場にいるのは危険だと思います。



 以前知人から、マルキシズムは宗教だと言われたことがありますが、ナショナリズムもまた宗教的な面を強く持っていると思います。思想を持たない歌などありませんから、どんな歌にしようが、ムリに歌わせるのは宗教的行為でしかありません。そのことを自覚していない人は、他人の思想の自由を無視して、自分の歌や旗を強制する自由だけを振りかざしています。これこそ自由のはき違えであって、戦後民主主義とやらの悪い面でしょう。
 現東京都知事は実は、戦後の悪い面と言われている「自由のはき違え」の象徴であるようにも思えます。

 子どもに対して色々な意味で圧力が強くなっているのは、現在のオトナ(の一部)が、自分自身に自信を持てないが故に、子どもに言うことをきかせることで自分を安心させようとしているのではないかと思います。
 私なら、このような方々にはカウンセリングを勧めます。人に迷惑をかけるくらいなら、自分を治療してほしいです。

 何度も繰り返しますが、歌や旗に敬意を表さないことで他人に迷惑をかけることはありませんが、敬意を強制することは多くの人に迷惑をかけます。
 これは自国でも他国でも同じであって、それがわかっていない人は、思想の自由を認めない(エセ)共産主義的な人間です。それらの人が自らの偏向した考えを儀礼とか常識とか言って正当化するのは、自分が自分勝手なことをしていることから目をそらしているのです。



 無闇に人を殴ってはいけません、傷つけてはいけませんというのと同じように、国旗・国歌に無理やり敬意を表させてはいけないと思います。それが人間に対する礼儀というものでしょう。
 公務員は全体に対する奉仕者ですから、一部の偏向した思想による憲法違反の歌や旗の押しつけには従ってはいけません。
 指導要領は法律ではありませんし、そこに書かれていたからといって、憲法に保障された思想の自由を侵していいものではありません。
 憲法は国家の定めた方針ですから、それに反する職務命令を出している側が、公務員としての職務を果たしていないことになります。

 教師は子どもの前で、思想の自由を守る見本としての義務があります。偏向した上司の命令に従って、憲法違反の指導を行うのは、上司が命令したから体罰や拷問をするのと同じです。
 むしろ自分の意に添わない思想であっても尊重するという意味で、教育委員会や都知事には「思想の自由の制限」があり得ます。(本当の意味の制限ではもちろんありません。押しつけないということです)

 国旗国歌法は敬意を表すとか強制するとかいう内容を含んでいませんから、国歌や国旗に敬意を表さなければならないという法律は存在しませんし、民主主義に基づいてそのような決定が行われたこともありません。
 前に書いたように、強制された敬意は本当の国に対する敬意とは全く異なったものであって、そのような敬意を求めること自体が、儀礼に反するものです。一部の人間が敬意を表したいからといって、公務員が子どもにそのようなことを強制してはいけないと思います。

 葬儀場で故人に敬意を表するのは、葬儀に自分の意志で出ているからであって、公共の場での儀礼とは全く異なるものです。
 現在子どもや教師には、自分の意志で国歌や国旗の場から離れる権利が与えられていません。そして故人に対する敬意と、歌や旗に対する宗教的な行為は、どちらも個人的なものであって、公の場にはふさわしくないものです。

 民主主義というのは、他人に迷惑をかけない限り個人の自由と責任を尊重する考え方であって、自分の意志で歌うのも、自分の意志で歌わないのも、すべて個人の行為として尊重されるし、個人の責任に帰されるべきです。
 今は「歌わせる自由」だけが尊重されているので、実は国歌や国旗に真に敬意を表することすら妨害されています。
 公務員は民主主義を尊重するべきですから、自ら率先して個人の自由と責任を全うするべきです。



 歌や旗に敬意を表するのがマナーではないと、何度も書いています。
 歌や旗に敬意を表したい人にも、表したくない人にも、不愉快な思いをさせないことがマナーであって、そもそも公の場で国旗や国歌を扱うこと自体がマナー違反なのです。
 私なら子どもにこう教えます;
(2005/3/30)


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