戦争国家の非可逆性

 選挙の争点がどこにあるかは投票者が考えることであって、選ばれる立場の者が「争点は○○だ」と言っていても演出にすぎない。郵政民営化の議決だけやってすぐまた解散するのなら別だが、そんなことはないだろう。
 私が最も心配なのは、この選挙で与党が勝った場合にまちがいなく憲法改定に踏み込んでくることだ。自民党は今回の選挙に際して「120の約束」という公約を出していて、郵政民営化はその1番目に掲げられてはいるが、120分の1にすぎない。そしてこの公約の中で憲法改定への取り組みを本格化させることを明言している。
 自主憲法制定を党是にしている自民党は、8月1日に改憲条文案(前文はなし)を発表している。そこでは自衛軍を保持すること、国際協調の活動を行う(海外派兵を認める)こと、公共の秩序の維持を行う(同じ日本人に対しても銃を向ける可能性がある)ことが明記されている。国際協調だの公共の秩序だのという曖昧な表現の元に「人殺し組織」である軍隊の活動を認めるのは、政府が認めれば誰を殺してもかまわない、と言っているようなものだ。私たちはそんな国に住むことに耐えられるか。
(軍隊がそんな人殺しをするはずがないと考える人もいるだろうが、それは「私がそんなふうに殺されるはずがない」あるいは「私がそんなふうに政府に逆らう(反対する)はずがない」ということであって、すべての意見・思想の自由が保障されるという意味で考えているとは思えない。)
 郵政民営化に伴う資本による郵便貯金の「搾取」や、自民党も民主党も主張している増税に対しても、私は意見がある。しかし極論すれば、郵便貯金がどれだけサラ金や外資に流れようが消費税が15%になろうが、それで日本人の生活がアフガンの人々の生活より貧しくなることはないだろうし、人々が本気になれば消費税を撤廃するなり「元に戻す」ことも不可能ではない。資本主義社会でお金はカギになるアイテムではあるが、その流れの変化は民主的社会ならば可逆的であって、失敗すれば元に戻すことができる。話し合いでものごとを決めること、そして表現や思想の多様性が認められていれば、まちがいは修正され得る。
 しかし軍隊はそもそも民主主義を許さない組織であって(戦闘の最中に個人の自由を尊重できるか? 闘っている相手の権利を尊重できるか?)、そのような組織が増長すること自体が民主主義の危機である。しかもそれは一種の非可逆的(元に戻せない)変化である。そもそも殺人を目的とする行為が容認されること自体が「非可逆的」とも言える。暴力も然り(殴られた痛みを消せるか?)。このような軍隊の本質のために、民主主義の思想が軍隊にとってじゃまなものとなり、軍隊とそれを容認し支持する人々がたえず民主主義と思想の自由を抑圧するのであって、一度そうなってしまった社会が自主的に民主主義を回復するとは考えられない。自由と民主主義の国と言われているアメリカでも、国家行為としての人殺しの責任から免れる自由は一貫して存在せず、他国との関係で見ればアメリカほど非民主的な国はない。
 軍隊が存在し戦争が終わらない最も大きな原因は、経済(金儲け)であろう。どれほど他の条件がそろっていても、経済的利益がなければ近代戦争は始まらない。最近岸田秀氏の本を読んで、戦争には精神的要因もあると考えるようになった。しかし軍隊が存在する理由にはもう1つ、軍隊そのものの「存続欲求本能」もあるのではないかと考える。
 現代の軍隊は要するに一種の公共事業である。建設の目的がコロコロ変わるダムがあるように、ある種の公共事業は事業そのものの存在(とそこから発生するお金)が1つの目的であって、それ以外の目的はいわば付随的なものである。冷戦が終わった後、冷戦のためにつくられた軍隊が(漸減することはあっても)すぐに解散しなかったのは、軍隊が客観的な目的でなく、軍隊自分自身のために存在していることを傍証している。
 ダムは自ら存在目的を主張しないが、軍隊は人間の集まりであり、暴力と殺人を肯定するための独特の思想を社会に押しつけ続けなければ存在を続けられない。軍隊の思想(と利益構造)に共鳴した権力者、そこに追随するマスメディアによって「自分が生きるためには人殺しはやむを得ない」「あいつらは殺されても当然だ」「国を守るためには人殺ししかない」という考えが広められる。自民党は上に挙げた公約で以下のようにも書いている;
防衛庁を「省」に、自衛官に一層の名誉と誇りを
わが党で作成した「防衛省設置法案」を国会で成立させ、国の独立と平和のために働く自衛官に国民が敬意と感謝の念を持つよう努める。

 たとえば警察官も消防士も国のために働いていると言えるだろうが、その人たちに対して「国民が敬意と感謝の念を持つよう努める」などという表現は見たことがない。わざわざこのように表現しなければならないのは、その職業の本質が「敬意と感謝を持つ」対象となるようなものではないことを反証しているようなものだ。
 軍隊は莫大な予算を必要とし、しかもその存在目的として常に敵を想定するので、経済的にも国際交流の面でも人々を圧迫する。そのことをごまかし正当化するために、軍隊を支持する人々は真実を隠し言論の自由を否定しなければならない。かつての日本、そして現在のアメリカはまさしくその状態である。今の日本はどうか。軍隊が人殺しの組織であるという真実を、どのメディアがきちんと伝えているか。イラクで人道支援をしようとして拉致された日本人を「反日分子」などと呼ぶ国会議員が未だに在職することを、彼に投票した人々はどう思っているのか。北朝鮮への非難は公然と行いながら、その原型であるかつての日本のあり方や行為を正当化しているのは、(自分の害にならない範囲なら)軍隊の思想を根本的に肯定しているからではないのか。
 軍国主義の正確な定義を私は知らないが、暴力を肯定し自らの利益のために軍隊の行使を容認する思想は、私から見ればまごうことなき軍国主義である。そして憲法の改定は、軍隊を認めその人殺し行為を容認することによって、この国を軍国主義へと導く。これは民主主義の「自殺」である。軍国主義に走った日本が敗戦まで民主主義を得ることができなかったように、一度死んだ民主主義はこの国が破滅に瀕するまで生き返るまい。本当にそれでいいのか。人殺しを認める人々に政治を任せて、本当に子どもは幸せになれるか。(2005/9/8)


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