愛国心の本質

 教育基本法改定案は継続審議になったが、要するにこれからが正念場であろう。
 今回の改定のポイントは「愛国心」の他にもいくつかあるがそれは別に論じることにして、なぜ政治家その他の人たちがそこまで愛国心にこだわるのかを考えたい。
 自民党のホームページには以下のように書かれている;

 いじめ、不登校、学級崩壊など、教育をめぐる現状は深刻さを増しています。昨秋発表された中央教育審議会の中間報告は「国を愛する心、伝統文化の尊重」など、教育基本法見直しの具体的な方向性を示しました。心豊かでたくましい日本人を育てるため、わが党は新しい時代にふさわしい教育基本法の見直しに取り組んでいます。(中略)
 ……一方、経済的な豊かさを達成してきた過程で、現在の社会を築いた世代を尊敬する意識が失われ「自分さえ良ければ」という自己中心的な子どもが増えてきました。
 国民の間での自信喪失とモラル低下、青少年による凶悪犯罪の増加、学力の問題が懸念され、教育現場では、いじめ、不登校、学級崩壊など深刻な危機に直面しています。今こそ、教育の根本にさかのぼった改革が求められているのです。
 党文教部会長時代から一貫して教育問題に取り組んできた河村建夫文部科学副大臣は「歴史を知り、同時に日本人としての誇りと自信を持つ、夢を持つ、そうした教育がないがしろにされてきたと思います。愛国心を教えないのは日本だけです。今、改正をやらなければ次の五十年に影響する」と訴えます。
 わが党は本年運動方針で、「郷土愛と愛国心をはぐくみ、公共心・道徳心あふれる日本人を育成し、家庭や地域の教育力を回復させるため、教育基本法の改正に取り組む」との方針を打ち出しました。今後、全都道府県に設けられた推進本部を中心に、教育基本法の改正を国民運動にまで高める活動を展開していく考えです。(党機関紙「自由民主」 2003/2/25号掲載)

 例えば上の「現在の社会を築いた世代を尊敬する意識が失われ」というのは、尊敬するに値しないような社会になっていることの裏返しであろう。今の世の中を築いたことへの感謝はあり得ても、それを(北朝鮮のように)子どもに教えたり強制したりすることが教育だろうか。子どもに尊敬されるような社会をつくることができないのが、問題の元凶であろう。
 「国民の間での自信喪失とモラル低下」というのもオトナ側の事実に基づくものであって、子どもが「歴史を知り、同時に日本人としての誇りと自信を持つ、夢を持つ」ことで解決できるはずがない。自信のないオトナを見て誇りや自信が持てるわけがないので、教育するべきなのは子どもではなくオトナである。

 戦後の多くの日本人は、大まかにいえば経済大国になることにその誇りをかけていたのだと思う。少なくとも現在に至るまで、この国は民主主義というより「金主主義」である。お金があればモノがあれば幸せになれる、という考え方は、建前として肯定する人が少なくても、未だに巷に満ちあふれている。そのためにかくかくの生き方をめざすのだ、というのがこれまでの公教育の大きなレールであって、それは現在でも本質的には変わっていない(日本の入試とは、その内容から見れば、要するに優秀な官僚か技術者かサラリーマンを選別するものである)。もちろん思想としてそうでない人はたくさんいるだろうが、政府がそのような政策に乗って社会の条件をつくった事実は否定できない。
 今の子どもに「現在の社会を築いた世代を尊敬する意識が失われ」ているとすれば、つまり子どもはそのようなオトナの社会を尊敬できないのだ。そのことをオトナ自身もわかっているからこそ、「国民の間での自信喪失」が起こっているのだ。仮に「金主主義」であるにしろ、本気で自分の生き方に自信を持ち突き進んでいるオトナは、なにがしかの形で子どもに尊敬されるに違いない(こんな私ですら、尊敬されてしまうこともある)。また過去の日本人で尊敬するに足る人間を紹介することにも意味はあるだろう。しかし子どもが何(誰)を尊敬するか、オトナが規定することはできない。Y五十六を尊敬するかY宣治を尊敬するか、どちらかをオトナが決めることは教育ではなく「洗脳」である。

 日本の経済の先行きがあやしくなり、経済格差が進んでお金や物質の支えがなくなりそうな人が増えている現在、自らの生きている意味を見失う「オトナ」がたくさんいるのだと思う。様々なアプローチで生き方を指南する本が売れていたり、どうやって生きていけばいいのかズバリ言ってほしい人が少なくないのは、偶然ではあるまい。そんな自信のないオトナを、そしてそんなオトナをつくり出した「現在の社会を築いた世代」を尊敬しろと言うのは、無謀であろう。
 私自身の経験として間違いなく言えるのは、子どもは尊敬できる人の言うことを受容するのであって、誰それを尊敬するようにと教えられればそうするわけではない、ということだ。これはオトナでも同じだろうから、自分で置き換えて考えればわかるだろう。

 愛国心を訴える人は、いったい国を愛するとはどういうことだと考えているのだろうか。どこを見ても具体的なことは書いていない。まさか歌や旗を尊重するという幼稚なレベルだけで考えているわけではあるまい。愛国心を勧める人が、かの西村慎吾氏の「お国のために命を投げ出してもかまわない日本人を生み出す」発言を否定したという話も聞いたことがない(いったい彼はいつになったら手本を見せてくれるのだろうか?)。国を愛することがいじめや学力低下や不登校の減少につながるのだろうか。今のこの国を誇りに思うことで、本当に子どもは幸せになれるのだろうか。
 子どもに愛国心を求めている人は、国ではなく「自分」を愛してほしいのではないだろうか。自信のないオトナが、自らが自信を持つために子どもに「愛」を求めているのではないか。政治家が愛国心を口にするのは、国自体を愛するのではなく、国を仕切っている(と思っている)自分を愛してほしいからではないのか。「国のために命を投げ出す」というのは、国ではなく一部の人間の私益(これを「国益」というのは一種の詐欺である)のために命を捨ててほしいと懇願しているのではないのか。そうでないというのなら、なぜ彼ら彼女ら自身が「国のために命を投げ出さ」ないのか。いったいいつまで生きていれば気がすむのか。自ら手本を示すことがどれだけ子どものためになるか、わかっていないのかな。
 国を愛しているなら断固として原発に反対するべきだという考え方も、国のために汚職政治家と差し違えてもいいというテロリズムも、日本を実質支配しているアメリカに対して個人的に「宣戦布告」するという思想も、論理的にまちがいだとは言えない。愛国心を訴える人はそんな思想を認めるだろうか。認めないのなら、その人の「愛国心」は結局単なるエゴであろう。

 私は、日本人が日本人であることそのものによって誇りや自信を持つことは、現実として不可能だと思う。江戸時代のように、日本人であることによって生き方がほとんどすべて決まってしまうような状況なら、あるいは戦前のように政治的に思想統制が必要な状況なら、それは意味を持ちうるだろう。しかし事実として、人間は多様である。子どものために体をすりつぶしながら働く私の友人も、アメリカの人殺しを支持して恥じない安倍晋三氏も、また実際に人殺しをして逮捕され非難される人も、あるいは地味だがいい料理をつくっている近所の料理屋の店主も、すべて日本人である。日本にも日本の歴史にも日本人にも様々な面があるのであって、それをまとめて「誇り」などと言えるのは、私にはちょっと信じられない。祖先には素晴らしい人もいただろうし、どうしようもない人もいただろう。文化にしても長所と短所があるに決まっている。それはどこの国でも(国でない場所でも)同じだ。ことさら日本だけが他よりすぐれている(から自信を持とう)と言うのは、願望にしても底が浅すぎて、子どもから軽蔑されるのがオチだ。

 本当に必要なのは、経済(お金)だけに頼る思想から抜け出して、日本に住む人間が幸福になるためにはどうすればいいのか、そのためにどのような社会をめざすのかを、オトナが真剣に考えることではないか。答は1つではないかもしれないが、だとすれば様々な幸福の形が共存し得る社会のあり方を追求することも必要だろう。戦前の思想にすがりついて教育勅語を賛美したり、ちょっと景気がよくなったといって金主主義にしがみついていている場合ではあるまい。それらがうまくいかなかったから、人間を幸福にできなかったから、今があるのだ。
 今の憲法は、自ら教育勅語を信奉して生活することを否定も禁止もしていない。教育基本法がGHQの押しつけだという人は、自分自身が教育勅語にのっとって生きていけばよい。それを尊敬する子どもがいれば、制度や法律がどうであろうが教育として成り立つだろう。そうするオトナがほとんどいないのは、その方法が自分自身にあてはめられたら苦痛であることを知っているのだ。現実の社会生活のうまみだけを吸っておいて、他人に苦痛を押しつけるのは卑怯だ。子どもに教育勅語を教えたいなら、自らがかつての勅語の犠牲者と心中する覚悟を持つべきだ。
 子どもの問題は根が深いし面倒だが、難しい問題ではない。学力低下を防ぐには、点数や競争のためでない魅力のある勉強、それを教える「勉強の魅力を知っている」教師、子どもの努力を最大限支える環境をつくればよい。それは子どもが個性を発揮することにつながって、結果的にいじめを防ぐことにもつながるだろう。入試に縛られながらでも、塾で勉強の面白さを知っていく子どもは少なからずいる。私などよりずっと優秀で勤勉な、子どもに勉強の面白さを教えようとして勤めている教師が日本中にいる。その人たちを支え、後輩を励まし、いい環境と勉強内容と教材、そしてその場に憧れる優秀な人材をあてれば、学力が上げられないはずがない。それはオトナが子どもを愛する行為の結実であって、むしろそのようなオトナの行為こそが「国を愛する心」の発露と言えるだろう。
 我々はオトナなのだから、子どもに愛を期待するようなワガママはやめよう。せめてその前に、もっともっと子どもを愛してあげよう。(2006/6/18)


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