平和主義と安全主義

 北朝鮮のミサイル実験を非難する声が大きいが、私には不思議でならない。大量破壊兵器を大量に持っているのはどう考えてもアメリカで、そのアメリカと軍事同盟を結び支持・支援に励んでいるのは日本である。アメリカだってミサイル実験を散々行っているし、実験だけではなく実際に人に向けて撃ちまくっている。たとえば6月14日、米国空軍はミニットマンIIIミサイル500発の「品質管理試射」を行っていて、このミサイルのうち1発は太平洋中央部に向かって4800km飛び、テスト弾頭3発はマーシャル諸島付近に着弾している。ミサイルが危険であることには変わりないし、北朝鮮のミサイル発射がいいことだとは思わないが、それだけを非難するのは世界全体から見れば滑稽なことだ。
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こう言う時に限って、社民党や「9条の会」などの「平和市民派」の人たちが沈黙するのはなぜなのでしょうか。
という意見を見たが、私から見ればこれは逆である。アメリカの人殺し行動や、それを支持し日々支援している日本政府を支持している人は、なぜ北朝鮮のミサイル実験を支持しないのだろうか。自分たちが実際に人殺しをしておいて、自分がその標的にされると感情的に非難するというのは、矛盾しているだけでなく卑怯ではないのか。どうも言い分を聞いていると、自分自身が卑怯であることすら自覚しておられないような気がするが、それはおそらくこの国の本質的な貧しさを表していると思う。子どもの教育を考えるとき、このような卑怯なオトナがたくさんいるというのは、不幸なことだ。
 一切の戦争や暴力行為を否定するという意味での平和主義と、自分の生活が脅かされないという意味での安全主義は、区別されるべきだ。戦争行動や軍備を否定するのならば、自分たちの安全を失い殺される危険を覚悟しなければならない。逆に自らの安全を優先して考えるのなら、安全を守るための人殺しを肯定することもあるだろう。「私だって戦争はいやだ。しかし(自分の安全のためには仕方ない)……」という考え方は、自分の安全が保証される範囲でしか平和を口にできない「エセ平和主義者」である。そしてそれがもう一歩進めば「自分の生活を守るために、他国を侵略して資源を奪うのも仕方ない」という積極的戦争主義になることは、歴史や現状が証明している。平和という言葉の使い方がおかしいのだ。
 大多数の人間は、ミサイルの存在によって安全を脅かされ不安になるだろう。それは日本も、アメリカからいつミサイルが撃ち込まれるかわからない北朝鮮も、現実にミサイルが撃ち込まれているイラクその他の多くの国も変わらない。日本だけが安全を望むのがまちがいだと考えるなら、世界中の「ミサイルを撃つ者」を非難し反対するか、または自分たちがねらわれても仕方がないと諦観するしかない。もし「日本は特別な国なのだから、自分たちだけが安全を求めてもいい」と思うのなら、自分たちがエゴイストであることを認め、世界中から、また自分たちの子どもたちからも軽蔑されることを覚悟するべきだ。
 まさか日本に特別な資格があると本気で考えている人がいるとは思えないが、日本が特別な国であると宣伝している人が目立つ最近の状況は、そのような「日本原理主義」が復活するかもしれないという不安を抱かせる。かつて日本人はそのように洗脳された。その実体がどうだったかは、ぜひ『日本の戦争責任』を読んで知ってもらいたい。

 それにしても現在の北朝鮮のあり方は、戦前の日本と共通点が多い。政治・経済的孤立、個人崇拝を強制するファシズム、国家のためなら個人の犠牲をいとわない国家主義、軍備のために窮乏する生活、言論の封殺。餓死者が多いらしいが、日本軍の多くが食糧支援もなく餓死・病死していったことを思い出させる。これほど戦前の日本を想像するのに適当な「教材」はない。戦前の日本にも「いいところがあった」と言う人が、ことさら北朝鮮を憎悪するのは、一種の近親憎悪ではないかと思う。
 1つだけ違うのは、北朝鮮がまだ宣戦布告していないことである。この国がかつての日本のように戦争に踏み込まないようにとどめるためには、日本の歴史が大いに参考になると思う。戦争の一歩手前の日本の状況、そこから戦争を押しとどめる可能性があったとしたら何か、それを北朝鮮にあてはめるとしたらどうなるのか、今こそ日本の歴史学者・政治学者に真剣に考えてもらいたい。ノーベル平和賞をとる絶好のチャンスだと思うのだが……(2006/7/7)


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